300のお題シリーズ

お題『 階段 』

私は、ふと、何気ない仕草で、ソレを見下げていた。

何も無い、ぽっかりと明いてしまっている空間。そこにある、ひとつの”観念”。

私は何気なしに嬉しくなって、そこへと近づいていった。

私の机は汚れていた。それも、普通の汚れ方ではない。愛着がわくと同時に、憎悪がこみ上げてくる。

その汚れた机が、私の全てを形容しているように思える。否、そうといっても過言ではないだろう。

一番、人に対してひどいと事とは、嫌がらせでもなく、無視でもなく、いぢめでもなく、それは何も無いということ。

何も無い。意思すら、ない。何も無い事は、自分の感覚を狂わせる。何も感じないのだから、脳が慢性化し、何も考えられなくなる。人間に痛みが無かったら、きっと、すごい狂人が生まれるに違いない。

だから、こんな、ひどく汚れていて―汚されていて―、ひどくみすぼらしい私の机も、何も無いよりはマシに思えるのだ。

 

涙が、こぼれる。

 

最近涙もろくなったと思う。小さい頃は絶対に泣かなかった。いや、泣けなかった。

泣くのは悪徳だと言い聞かせたし、他人の前で泣くのは恥だと思った。泣いている人を見れば汚いと思ったし、そもそも涙なんていらないと思った。

人間は悲しいときにも、嬉しいときに泣く。悔しいときにも、憎い時にも。でも、それでも、まだ何かある。自分自身を失ったときは、涙すら、出ないのだ。

存在価値がない、それは恐怖そのものだった。

どこへ行っても、自分の場所がない。絶えず、演技で自分を着飾る。

どこにカメラがあっても良いように、演技する。全てが計算の上で進んでおり、誤算は許されない。

計画を綿密に立て、それを実行する。その計画に狂いがあってはならない。

 

私という人間を、創り上げる。

 

この世の場所のどこだって、私にとってはステージだった。

自分という人間を表現する場所であり、演技する場所であり、着飾る場所であり、見られている場所だった。だから、私は他人をひどく意識していた。

自分自身が意識すると、他人も意識してくれた。それでよかったし、それが幸せだった。

ただ、人間の生活は変わるものだった。

…。

机を、何も言わずになでる。するっという感触と、トトンという凹みが、私の指に伝わってくる。

そこに刻まれている文字をなぞる。ゆっくりと、本当にゆっくりと。

その文字を刻んだときより、ゆっくり時間をかけて。過去の時間を、そのままなぞる様に。その文字を書いた人間の思いすら、なぞるように。

ゆっくりと、指が文字をなぞってゆく。

数多の文字。

それは最早文様と読んでしまってよいものだが、私は一つ一つをなぞっていった。

…。

いつまでその行為を続けていたのだろうか。それは分からない。

 

――そろそろ、時間かな。

 

私は時計を見る。時間は夕刻を少し過ぎたくらい。

窓からは夕日が、ゆっくりした感じで流れ出てくる。それも、ゆっくりと。ゆったりと。

赤々と照らされた空は、私に対して応援してくれているように思える。

ひどく澄んだ空に人は清清しさを思わせるように、私はこの赤々とした夕日に、自分の激情を思い出させるのだ。

虚無の少女が持った、ひとつの思い。意思、そしてそれを実行するだけの、勇気。

もう、この机にも戻ってこないと思うと、少し悲しくなったが、その反面安堵もした。

これで、開放されるのかな?

無邪気な少女のように、自分に問う。答えはない。

でも、やるしかないのだ。私は、ゆっくりと自分の机から遠さかる。

一歩一歩、それまでの人生をかみ締めるように。

そして、これからの人生を想像して。

 

「さってと。そろそろ、あの子が下りてくる頃かな?」

私は、3階の廊下、待ちぼうけながらそんなことを呟いた。
 この後、彼女の人生は急転落。…言わずもがな、ですけどね。