300のお題シリーズ

お題『 荒野 』

視界がぼやける。倒れそうになる。それでも、男は倒れない。

とある男は、汗をぬぐった。

額にはぬぐってもまだ玉の粒のような汗がこぼれている。それが男の顔をつたり、そして首に巻いているタオルにしみこんでいった。熱い日に、男は黙々と、それでもってゆっくりと作業を続けている。

汗が落ちる。ぬぐう。また、汗が落ちる、ぬぐう。その作業の繰り返し。

男は下しか見ない。そこで行われる単純極まりない作業は、それそのものが悪い腫瘍であるかのように男の精神を蝕んでいる。

唯一、”熱い”というこの感覚、その刺激だけが男を健全たらしてめている。

その、矛盾。

男には夢があった。家族があったし、希望があった。将来には何になりたい? と聞かれた年の頃も、未だにはっきりと思い出せるし、自分で言うのもなんだが幸せな家族だと思う。

いや、家族だったと思う。

はと、気づく。作業を中断していた。

男はまた、作業を続ける。再び、汗が落ちる。でも、男はその汗をぬぐおうとはしなかった。

黙々と、そしてゆっくりと、男は下だけを見ながら、作業を続ける。

何年ぶりだろう。こんなに夢中になるのは。

何年ぶりだろう。こんなに汗を流すのは。

何年ぶりだろう。他人のために、ここまで真剣になれるのは。

それは病的であり、そしてどこか可笑しな光景である。

決して報われることのないその行為は、男から未来を、希望を、羨望を、夢を、そして現実感を奪った。

手が、瓦礫によって切れた。手から、血が流れる。

ぽたり、ぽたりと、血が地面に落ちてゆく。汗と一緒に、自分の水分が徐々に失われる。

男は、そこでやっと作業を自分の意思で中断する。その途端、現実が戻ってくる。

上を、見た。

澄んだ空。雲ひとつない、空。

そこは一種の聖域であり、神域だった。何者にも侵されず、何者にも脅かされない。ゆっくりと、そしてゆったりと時間だけが流れ積み重なってゆく。

古来、空は別世界と考えられていた。

なるほど、そうだろう。男は納得する。

下を見れば、再び現実は消え去り、そして汗だけが落ちる。そこにあるのは嫌な現実だけで、空を見ていたほうが楽で、しかも夢があり、想像がある。

しかし、男は自分の手を簡単に治療すると、再び下を向いた。

夢から、目をそむけた。

いや、まだ夢はある。希望はある。自分に言い聞かせるように作業を開始する。

一体、何時間、この作業を続けているのだろうか。最早、時間の感覚などない。

一体、何箇所、怪我をしたのだろうか。最早、痛みの感覚などない。

一体、いつまで、この作業は続くのだろうか。その問いに、答えなどない。

自分の希望を、助けたときが、男の終着点だった。

それでも男は、ひたすらに、そして着実に、作業を続ける。そこに夢を、希望を、羨望を見たいから。

自分の満足といえばそうかもしれない。

もしかしたら、これが自分の夢なのかもしれない。

一つしかない希望、そしてそれを掴むのが夢―――。

なんて滑稽。なんて矛盾。希望が達成するのが夢。そんな、曖昧で、それでもって非現実的な光景の中、男は笑わずに作業を続ける。

希望を掴むために。

失った大切なものを、取り戻すために。

また、幸せになれますように。

手で、一つ一つどけてゆく。瓦礫を、掴んでは後ろに放る。

大丈夫、大丈夫と言い聞かせて、瓦礫をどけてゆく。ゆっくりと、そして慎重に。

この、瓦礫の下にいる誰かを、助けるために。

この瓦礫の下にいる誰かを助ける、ために。

 

瓦礫の下からふと、声が聞こえた気がした――――
 幻聴ですが。