300のお題シリーズ

お題『 毀れた弓 』

高々と、音が場内に木霊した。

はぁ、はぁと、吐く吐息だけが世界の全てになる。

緊張の糸が途切れたのだろうか。もう、何も感じない。ただ、手の中にある弓がひどく重く感じる。

体中から一瞬で汗が吹き出てくるような不快感。そして、ひどい疲労感。

俺は、すぅっと、大きく息を吸ってから先ほど自分が射た先にある的に目を向ける。

すぐには、見えない。

視界がピントを徐々に合わせるように、段々とその姿が鮮明になってゆく。まるで、それは永遠にも感じるような時間の中、緊張だけが再び体を覆いつつある。

矢が見える。矢は、外れていた。

 

 

「ったく、名折れだな」

俺は体に纏っていた弓道のための胸当てやら、胴着を脱ぐ作業にかかる。

今いる場所は、柔道場の男子更衣室。その中には俺しかいない。だから、先ほど言った言葉はまるで独り言なのだが。

『仕方ないよ…今日は、そう今日は調子が悪かっただけだって』

と、その独り言に言い返してくる声があった。その声は男子更衣室の外から聞こえた。

俺はそっちのほうに目を向ける。

何故か全てが木造でできている建物の、湿ったにおい。先ほどまで部員が使っていた名残であろう微妙に鼻を突くような酸味がきいた匂い、そしてまだ暖かい空気。

その無効、更衣室内に淡い光が咲きこむその扉は、妙に際立って見える。あ、そうか。どうやら俺はこの部屋の電気をつけることを忘れていたらしいが、その扉の窓ガラスを通って入ってくる光があったから不自由しなかったらしい。

とにかく、声はその扉のすぐ向こうから、聞こえてくる。

『ね、だから、頑張れば?』

それは、女声だった。それも、俺がよく知っている女の声。

「…なんだ、まだ帰ってなかったんですね、部長」

そう、この弓道場の中では部長と呼ばれているその少女、否、彼女はもう学校を卒業しているからそもそも”部長”と呼ぶこと自体が変なのだが。

まあ、差し詰め”元部長”だろう。普段は土岐子さんと呼んでいるのだが、こういうちょっとしたはころでは、元の呼び名に戻ってしまうのだ。

『そりゃ。だって、私、ここの管理人な訳けだし?戸締りとか頼まれてるし』

「いつもは、僕が鍵を持っていってますから、部長が来る必要は無いでしょうに」

『まあ、そだけどね』

一瞬、声が途切れる。まったく、部長に当たってどうする…。

俺は自分の心を抑えながら、服に手を通す。

そうだ、部長に当たってどおする。最近、大会が近いからといって、そしてその直前なのに成績が伸びるどころか下がっているからといって、何故部長にあたらなければならない。

落ち着け、俺。

「…すみませんでした、部長」

いつもどおり、私物をバックに詰め、弓から弦(つる)をはずすと、扉から出た。

そこには相変わらずの部長。年齢はひとつ上なのに全然それを感じさせない容貌。

ただ、彼女が纏っている雰囲気は、紛れも無く”部長”と呼ばれるに相応しい。

気迫、とでも言うのだろうか。この俺より背が低い少女は、とても俺では到達できないほどの気力の持ち主なのだ。無論、弓では足元にも及ばないほどに。いや、弓だけでなく全てにおいて。

「ん。戸締り、してきてくれた?」

少女土岐子さんは俺も見ずに背伸びをする。どうやら、相当退屈だったらしい。

「はい。鍵も、見てきました。あとは、道場…」

「道場は私がやっとくよ。久しぶりに、撃ちたくなってきちゃったし」

「…? 今からですか? そんな、もう夜遅いですし」

「いいんだよ。とにかく、帰ってよし…って訳にもいかないよね」

少女は悲しげに、いや、優しく笑った。

「おい、現部長。ついてきなさい」

そういうと土岐子さんは俺を無視して道場の方に歩き出した。

靴箱は逆方向である。

 

「…んで、何言われるか、想像ついてるね?」

道場で、その淡い光の下、時間はもう相当遅くなっているらしく外は真っ暗だが、俺と土岐子さんは何故かお茶をすすっていた。

「…まあ、大体は」

正直に答える。

「そ。でも、言う。ま、とーさんに頼まれてるのもあるけど、それ以上に私が言いたいのさ」

「師範が、ですか」

「うん。ねえ、アンタ、大丈夫? なんなら、しばらく弓から離れたら?」

少女は何てこと無い、と言った感じで言った。

「…」

「…? あれ。アンタのことだから、何か言い返してくると思ったんだけどな。ちょっと、拍子抜け」

「まあ…ある程度は分かってましたし。最近の成績見たらやっぱり…」

「阿呆」

一括された。

道場に、シーンと、耳が痛くなるほどの沈黙が流れる。

部長、土岐子さんは、相変わらず俺を見つめた、いや睨み付けたままだ。

俺はその視線を受けきれずに逸らす。まったく、部長は昔から変わっていない。

まっすぐで、当たり前は当たり前と言える、強い人のままだった。

高校を卒業しても、何も変わっていないのだ。

「違うって。タカの成績は、まあ私としてはこんなことを言うのは不本意なんだけどさ、他人から見たらずっといいよ。それこそ、現役の私には及ばないとしても、結構イケてると思う。っても、結局こういうのって自分との勝負だから、他人との比較なんて関係ないんだけどね」

「…じゃあ、どうして?」

「重荷。とーさんが、アンタにとって弓が重荷になってるんじゃないかって、言ってた。私もそんで同感なわけ。まあ、私なんかが何を偉そうに〜って感じだけどさ、傍から見たらアンタ、どう見ても弓を楽しんでないし」

なら、やめろ、か。

確かに、それがいいのかもしれない。

でも、極端すぎやしないか?しかも、今は大会前。この道場の高校生の中で、いや正直社会人の人たちを含めても、俺以上の成績者はいない。これは誇張でも、そして自慢でもなく、事実だ。

なら、俺が止めたら成績が落ちたら困るのはこの道場だし、それに部長も…。

実際、俺と一緒に道場に通っている友達だっているし、それに、正直俺から弓をとったら何も無い。

俺を見て、着々と力をつけている子もいる。俺を目標にしている子もいる。教えている子もいる。

そう、俺と弓は、最早切り離せない存在になっているのだ。だから、止めるわけにはいかない。

逃げるわけには、いかないんだ。

「…そう、簡単には割り切れませんよ。それに、それは無責任だから…」

そう、俺が言った瞬間、部長の顔が更に怒りに染まる。

ガタっと大げさな音を出して部長は立ち上がると俺を見下ろして言う。

「無責任…か?」

「ええ、そうですよ。だって、俺には弓をやらなきゃいけない理由が…」

しかしその声は部長の声でかき消される。

「はぁ…たく、馬鹿か、あんたはっ。 …もう、これほどとは…正直、アンタにはがっかし」

流石に、馬鹿と言われれば俺だって腹が立ってきた。一気に怒りのボルテージが上がる。

最近溜め込んでいたことを、全て吐き出す勢いで、毒づく。

「馬鹿かって…そんな言い方はないでしょう!? そりゃあ、俺だってそこまで楽しんで弓やってるわけじゃないですけど、でも、今止めるのは無責任以外の何者でもないじゃあないですか!? 後一週間くらいなんですよ、大会。今から俺が抜けて、その後を誰が埋めるんですか? 目処は立っているんですか? そんなはずありませんよね。だっき、部長、俺以上の成績のものはいないって言いましたから。なら、大会で負ければ知名度だって…。」

「…はぁ…アンタ、何も分かってないね…よし、ここは私が取り入って少しは処置を緩和してやろーと思ったけど、止めた」

何も反応を示さない、それどころか、何故か呆れる部長。

「…? それは、どういう、ことですか?」

「師範からの伝言。私さ、本来はこれを伝えるために来たんだわ。アンタ、道場今から一週間入道禁止、ね」

「なっ、一週間? 正気ですか? 大会まで日数が…」

「師範に言ってよ。ま、私もそれが適切な判断だと思ったわ。ほら、部外者は帰って」

「ぶ、部長…」

「ん?ほら、早く帰んなさいよ。閉めるから。頭冷やして考えなさい。アンタにとって弓とはってね」

そういって部長は俺を道場から追い出した。

夜の風が、汗を撫でて、ひどく寒かった。

 

どういうつもりだろう? どういうつもりだろう? どういうつもりだろう? どういうつもりだろう?

先輩にしろ、師範まで、一体どうしたのだろうが?

確かに、確かに最近の俺はちょっと色々あって弓に集中できていなかった。でも、それでも、成績は自分の中では下であるが、他に比べては上に行っていた。それは、部長だって言っていたことだ。

ならば、何故?

俺は小学生のころ、楽しそうという理由で弓を始めて以来、この8年間、弓だけをやってきた。

小学生のころには大会に出場し、そこでは幾度と無く入賞した。

あの道場だってそうだ。実際、俺が通っていたおかげで、生徒も少しは増えたはずだ。部長と俺が共にいた2年間の間では、ほとんどの大会で優勝、もしくは入賞した。それが情宣となって多くの人がこの道場に通うことになったのだ。

今では、ここあたりの道場では一番の生徒数を誇っている。全員とは言わないまでも、入った人間が辞めなければ当たり前の結果だった。

俺の学校でも多くの大会に入賞した。少なくとも、この3年間の間で、入賞しなかった大会というのが数えてしかないほどだ。

こんな成績の俺が、何故?

弓の成績だけを見たら、他の人間よりは上のはずだ。

しかし、何故?

分からない、分からない、分からない。部長と、師範の考えていることが、まったく理解できない。

今日で3日目だ。大会は今週の水曜日だ。これ以上サボっていると、体がついていかなくなる。

といっても、俺の弓は道場に置いてあるから、練習すらできない。他の弓を使って射ることはできるけど、それだと体の感覚がつかめない。

どうしろというのだろうか。

まったく、分からない。このままだと、何もできなくなる。

俺にとって弓とは? 決まっている。自己というものを表現するための手段にして、性格・パーソナリティーの保護の手段にして、自我にとっての隔壁にして、俺にとっての趣味にして、インヴィジュアリズムの象徴にして、個人のステータスにして、他人との関係性にして、俺の代名詞にして、自分というものを示すための道標だ。

俺にとって弓というのは、言い換えれば全てだ。俺の、全て。

そんな弓をあの人は止めろというのだろうか? いや、そんなの無理だ。そんなことはできない。

俺にとって弓は何よりもかけがえの無いものだ。こんなところで失うわけには行かないのだ。

何としてでも、俺は、弓をやり続けなくてはいけない。

俺という人間が、なくなってしまうから。

 

4日目。俺は初めて道場を訪れようと師範の家の前に立った。

でも、そこから一歩が踏み出せなかった。

何故か、俺は進めなかった。怖いのか、否、怖くない。恐ろしいのか、否、恐ろしくない。後ろめたいのか、否、後ろめたくない。弓を射たくないのか、否、否、弓を射りたい。

「…よっか、か」

と、声がする。

気づくと、部長が後ろから向かってきていた。心臓が飛び跳ねる。

な、な、何故、俺は今になって、こんなタイミングで部長とあってしまうのだ? まだ生徒とかだったら言いくるめられるのに、何故このタイミングで部長が!?? ったく、神様がいたら殴り殺してやる。あーでも、神様といい殺すのは嫌だなぁ…ん? いや、そもそも神様は死なないだろ。心配して損した。って俺は今近親処分を食らっている身だ。それに、道場には入室禁止。こんなところを見られたら俺は命令にそむいていることになるんじゃないのか? それこそ、謹慎処分以上の処分を食らうんじゃないのか? ん? よくよく考えてみれば”道場”に入るなだから別に家の中に入ってもいいんじゃないかって揚げ足も考えられるが、そんなことをいったら確実に殺されるだろうし、どうするべきだ、どうしたらいい、どうできる??

「ぶ、部長…あ、えっと、これは、その」

俺が必死に弁解を考えていると、

「上がっていくかい?」

と、部長は笑って言った。

「え…? その、いいんですか?」

「道場にはいれないよ?」

あ、どうやらOKだったらしい。

道場はだめだったらしいけど。

「べ、別にいいですけど…」

「ん〜。だったら、私の部屋でも行く?それとも、居間?」

「…居間で」

部屋といえない自分が、少し悔しかった。

 

「にしても、4日か〜。アンタ、これ以上サボると、体が戻らないよ? 一日は十日なんだかんね」

「…っ。な事言われても…近親処分食らってる身で道場にこれませんし…」

「じゃあ、何で今日来たの?」

沈黙。この前のように粗茶ではなく、ちゃんとしたジュースが俺の前におかれている。その向こう、何故かストローで飲みながら、先輩はこちらを伺う。

先輩、正直、ロリっぽいです…。

「…なんで、でしょうね…しいて言うなら、弓がやりたかったから、でしょうか」

俺は、そう言う。これは本心だった。心からの、俺の願いだった。

ここ4日、まともなことなんで考えられなかった。

というか、何も考えられないまま、今に至っていた。

でも、これだけは、”弓がやりたい”という気持ちだけは、本当だった。

心から、そう思う。

「解禁♪」

「………え? な、何ですか、唐突に」

「いや、だから解禁だって。弓、やっていいよ」

部長は、相変わらずの態度だった。

「…で、でも、どうして…そ、そんなあっさりと…」

「ん?何だ。弓、やりたくないの?」

「い、いえ、そう言うことじゃないですけど…」

俺はそういわれてどもる。その様子を見た部長はニコっと笑って、

「まーまー。とにかく、弓、射ってきたら?」

と、言ってくれた。

 

高々と、音が場内に木霊した。

はぁ、はぁと、吐息だけが世界の全てになる。

緊張の糸が途切れたのだろうか。もう、何も感じない。ただ、手の中にある弓がひどく重く感じる。

体中から一瞬で汗が吹き出てくるような不快感。そして、ひどい疲労感。

俺は、すぅっと、大きく息を吸ってから先ほど自分が射た先にある的に目を向ける。

視界がピントを徐々に合わせるように、段々とその姿が鮮明になってゆく。まるで、それは永遠にも感じるような時間の中、緊張だけが再び体を覆いつつある。

矢が見える。相変わらず矢は、外れていた。

「さてと…あと一矢…だな…」

独り言をつぶやくと、俺は再び弓を引いた。
 初めての個人名。ちょっと挑戦…