300のお題シリーズ

お題『 パステルエナメル 』

さあ、フィナーレを始めよう。

 

「………」

先ほどから少年は黙ったまま、目の前の絵を凝視していた。

少年がいる場所は、とある学校の美術室。その中の席に座ったまま、じっと、目の前のカンバスを眺めている。

手には筆。しかし、その筆には何も絵の具らしきものは付いていない。知っているヒトが見れば分かるのだが、それは描くための筆ではなく、色を作るための筆だった。

目の前のカンバスは、作品が飾ってある。鮮やかな色使い、そして幻想的な風景の中の中心に、ぽつんとある池。その池の色が他の風景と対象にダークで書かれているため、絵全体的には悲しい印象を受ける。

ちなみにまだ題名は決まっていないらしく、カンバスの横に置いてある紙はまだ白紙のままだ。

その絵は、今からどんな付け加えをしても蛇足にしかならないレベルまで完成していた。だが、少年は一向にその目から視線を外そうとしない。

その少年は何度か、筆を使って色を作り、そして書き込もうとしたが、直前でやめる動作を繰り返していた。その度に少年は泣きそうになる。

そして、随分と悩んでから少年は筆を置く。そして、席を立ち、どこかへと行ってしまう。美術室には、ぽつんと悲しく取り残された鮮やかな風景画だけが残っていた。

 

「………あ、ねえねえ、あの絵、できた?」

と、美術室を出てきた途端、少年に一人の少女が話しかける。その少女は遇々そこにいたのではないのだが、どうやら今、偶に通りかかった風を装っているらしい。

その少女を一瞥して、少年は無言のまま歩き出す。

それを追いかけるように、少女は少年の隣に並ぶ。

「…まだ、なのかな…?」

その言葉にも少年はまったく答えない。キャンバスの廊下を、只淡々と歩いていくだけだ。そもそも少年には、言葉を交わす意思などなさそうだった。

その態度に少女は少し口籠もりながら、それでもまだ喋り続ける。まるでそれが、義務であるかのように。その事で、少年を救っているかのように。彼女は、まだ言葉を績ぎ続けた。少年も少年で、その言葉には一言も返答をしなかった。

そのまま、2人は外に出る。外はもう暗闇で、頭の上には丸い月が出ていた。少年は少し、空を見る。それに釣られて少女も上を見る。

しばらく、2人はそうしていたが、今度は少年から口を開いた。

「…あの絵は、破ったほうが良いのかもしれない」

それは、ひょっとしたら少女には聞こえないんじゃないかと思われるほど、小さな声だった。

「………そんなこと、ないと思うけどな…」

少女は少年に眼を向ける。しかし、少年は空を見上げたままだ。

「…大体、俺があの絵に筆を加えられると思うか?」

今回の言葉は今までの言葉と違い、明らかに相手に返答を求める、明らかに相手に対して意識して発した言葉だった。

「ううん、逆だよ。多分、キミじゃないと加えられないんだと思う」

きっぱりと、はっきりと、少女は言い切る。その言葉を聴いた少年は苦笑する。

「…アイツは、もういない。だから、あの絵は、そのままにしておいたほうが良いような気がするんだ」

「…私は、あのヒトは、最後まであの絵を完成させたがってたし…私も、完成した姿を見たいな」

「だからって、俺に押し付けるのか? 俺は…」

そこで、言葉に詰る。バツが悪そうに、視線を逸らす。

しかし再び少年は、今度はしっかりと少女を見る。一見、憎悪の入り混じったような眼をするが、すぐにその様子は消える。少女はその眼に何も言えないまま、視線を少年から外す。

どこからともなく、自動車のクラクションが、やけに大きく聞こえた。少年は少女から視線を外す。

「……うん。私は、それを見たいから。そして、それが出来るのは、やっぱキミしかいないと思うから」

その言葉を聴くか訊かないかの内に少年は歩き出す。今度はそれを少女が追う様な事はなかった。いつも、ここで2人は別れる。かつて、3人で別れていた時の様に。

それぞれ、別々の家へと帰宅する。しかし、今ではそれは2人になってしまったが。

「明日は、出来るよ。きっと」

そんな言葉を、少女は暗闇に向かって、呟いた。そこに混じっている感情は明らかな希望、信用だった。その言葉は、少年の耳に届くまでに、夜の暗闇の中に混じって消えた。

 

その、次の日。

少年は再び、例のカンバスの前に座っていた。只、単純に座っているだけだ。

「……なあ、お前は、この絵をどうしたかったんだ? …ったく、最後まで、嫌な物を残して行くやつだよ、てめーは」

その言葉は、誰に向けて発せられた言葉なのかは分からない。だが、目の前のカンバスがちゃんと聞いているような気が、そしてさらにはいないはずの人間が、聞いているような気がした。

だから、少年は喋り続ける。

「お前の絵。お前の彼女。お前の地位。そして、称号。巫山戯るなよ? 俺には、はっきり言って重すぎる…」

一息入れる。少年は堰が切れたように、一気に喋る。

「俺は、お前の後を只付いていくだけで良かったはずだったんじゃないのか? お前は、いつでも俺の前に居てくれるはずじゃなかったのか? 俺には、重い。無理だ。うんざりだよ…お前の代わりには成れない。この絵だってそうだ。俺は、筆を入れることも出来無い。失敗することが怖いんじゃない。この絵を壊すのが恐いんじゃない。俺は、”何をしたら良いのか”わからない。…そう云う意味じゃ、俺もアイツの意見に賛成さ。”ここで完成”だと思う、だが、お前はそう思わなかった。分からないね、お前の考えが。…俺には出来無い。潰されそうだ。はっきりいって、オーバーワークなんだよ。キャパ範囲外だよ…。聞いてるか?」

そう言って、少年は虚空を凝視る。誰も居ない、ぽっかりと空いた空間に、何かいるように。その一点を凝視たまま、少年は止まる。

「………ちくしょう…だが、お前はもういない」

その言葉は、空虚な教室に消える。誰も居ない美術室。慣れ親しんだ絵の具と、シンナーの香り。そして、換算とした中に一つだけ咲いている、色鮮やかなカンバス。

「………お前は、もう、居ない…か。何か、嘘みたいだけどな」

そうして、数秒間、少年は目を瞑る。

完全なる、静寂が辺りを包む。

その一瞬一瞬が、永遠のような静けさ。耳が痛くなるような、沈黙。時間が凍って、何もかもが活動を停止するような感覚。

そんな中、少年はゆっくりと眼を開ける。止まった時間が、動き出す。

全てを、吹っ切ったように。全てが、吹っ切れたように。少年は、しっかりと虚空を見据えて、

「……OK。お前は、もういない。お前には、俺はもう縛られない。文句は言うなよ?」

少年はニヤリと笑顔を、いや嘲笑に似た表情をして、ゆっくりと、パステルエナメルの絵の具を搾り出す。

「勝手に、やらせてもらおう」

 

いつも通り、その少女はアルバイトを終わらせて、いつも通り、扉の前に立っていた。勿論、その中からある男子が出てくるのを待っているのだ。

時計に眼を落とす。もう、いつもより随分遅い時間帯。教室内からは淡い光が漏れているから、中にいることは間違えない。

少女は耐え切れなくなって、扉を開ける。その中心に、一人の男の子が座っていた。カンバスに向かって、何やら必死に描いている。

「……」

その様子に、もうこの世には居ないはずの人物を、重ね見る。

…駄目だ。私はまだ、あのヒトを振り切れて居ない。

少女は少し没みながら、少しずつ少年に近づく。そして、もう少しで少年に触れるかとしたところで、カンバスを見て、絶句した。

言葉を失った。

静かに、少年は筆を止める。そして、これまた静かに喋りだす。

「…完成、だ」

「……」

「文句は、あるか?」

「……」

私は、静かに首を振った。

 

そのカンバスには、あのヒトと同じ絵が、もう一枚、描かれていたのだった。

しかし、まったく同じではない。あのヒトの絵は全体的に鮮やかだったのに比較して、コッチの絵は全体的にダーク。だが、中心の少女の白い服が、あきらかに世界を明るくしていた。

パステルエナメルの景色。灰色の森。黒い空。だが、中心に一人の少女。

あのヒトの絵には居ない、一人の少女。

 

「俺には、やっぱりできなかったよ……すまんな」

少年は誰に言うともない言葉を、虚空に履き捨てた。
絵の題名………『湖畔の少女』? うわー、ネーミングセンスね〜(没