300のお題シリーズ
お題『 通勤電車 』
世界が事象だと言うのなら、ボクは事象ってことだよね。
ごとんごとんと揺られながら、窓の外を流れてゆく景色を何を見るわけでもなく見つめている。 車内には多くの人間が押し合うようにしている。実際問題、車内にいる人間の一人である僕自身も、左右からの重圧に必死に耐えている状態だ。 前ほどから誰も一言も喋らない。 こんなに狭い空間に、こんなに多くの人間がいるのに、お互いをまるで居ない者のように扱い誰も一言も喋らないのは異様だと思う。 まあ、その異様さも今に始まったことではないが。もう僕自身でさえ、意識しなければこの”異様さ”には気づかないほど、慣れてしまっているのだが。 前ほどから定期、不定期に振動が僕の身体を揺らす。それに伴って、周りの人間も少しだけ振動するが、そんな事は誰も気にしていない様子だ。 ふと、思う。此所にいる人間全てに、ドラマがあるなんて、正直信じられない、と。。 一人ひとりが家庭を持ち、過去を持ち、そして秘密を持っているのだ。それに例外は一人もいない。 そして、一人ひとりが思考を持ち、信念を持ち、将来への期待や夢を持っているのだ。 そう考えると、今を生きている自分自身の特別さがないのではないかと言う不安に駆られる。周りの人間の中に自分が埋没しているという意識は、自分自身が平々凡々とした一般人であるということを認識させてくれる。 それが悪いことか良いことかは分からないが。 そういう意味で、このような社会において、個性と言うものを持ち続けるのが非常に難しいだろう。 自分自身と言うのは『社会』という世界のワンピースに過ぎず、その歯車が例え一つ欠けたところで誰かが補える。それのどこに、”特別”があるのだろうか。 わからない。 いや、考え方を変えると、この眼の前で誰とも喋らず、ただ自分自身の目的のためだけに行動しているこの愛すべき人間を見ると、これが人間として正しい生き方ではないかと、そう思う。 決して自らと言うものを主張することなく、主張するにしても身分相応に、『社会』という絶えず全体のシステムを見通しながら、自らの地位や位置と言うものを客観的に判断しながら、生きて行く。 それは一見個を失っているかのように見えるが、それは他人に対しての配慮なのだ、と。自らの利益ばかりを優先するのではなく、全体を見通している。ある意味での、人間としての完成形態。 そうとすら、思えてくる。実際、そうなのかもしれないが。 まあ、僕自身にそれを判別するだけのチカラは無いし、そもそも先ほども言ったように、自分自身がすでに埋没してしまっている僕自身は、それを判断するだけの考えと、意思を持たないのかもしれない。 それは、非道く素敵で。それは、恐怖そのもので。時々分からなくなる。何が正しいのか。自分自身とは一体何なのか。 まあ、それは恐らく人間死ぬまで分からないのだけれども。 そこまで思考して思う。 死ぬまで分からないのなら、死んだら分かるのだろうか。では、僕らは分かるはずなのではないのか、と。 この地獄逝きの列車の中にいる僕らなら、已に社会のワンピースからかけ離れた存在である僕らなら、自らの物語を見終わっている僕らなら、その答えに解答できるのではないか、と。 嗚呼、そうだったのか。 答えなど、死んでもわからない。 これこそが、解答だったのか―――――― |