5月6日
「ふあぁ〜………ねむぃ」
目を擦りながら家の門を抜ける。その途端、神々しいまでの朝日を浴びて、体が溶けかける。
ゴールデンウィーク明けの今日、俺は相変わらずダラダラとした日常をおくっていた。
あたりはすっかり桜の季節から海の季節へと移り変わりを始めており、しかし中途半端な季節のためイマイチ気が入らない。
まあ、俗に言う五月病である。俗に言わなくても五月病だろうが。
四月はそれなりに気を引き締めてかかるのだが、五月というある意味中だるみの時期には、やはり何事もダラダラとなってしまう。
学生であることを考えれば、すぐにも中間試験が待っているのだが、それを思ったとしてもはやり気が入らない。
そんな感じで日々を、流動的に、しかも怠惰的におくっているのであるが。
それにしても……眠い。どうして人間の体ってのは休日の朝はしゃきっと起きられて、平日はこんなにまで億劫なのだろう?
何故連休明けというのはこんなにも憂鬱で、そして怠惰で、あたりの情景が億劫にみえるのだろうか。
まったく、一週間が毎日休みだったらいいのになぁ。あ……それだったら世界が回らないから駄目か……?
いや、それはそれで面白いんじゃないだろうか……。うーん、微妙なところだなぁ・・・。
毎日が日曜日っ〜♪ じゃないけどさ。あ〜でも、それはそれでつまらないような気もしないでもない。
うん、やっぱり人生ワビサビが大切ってな。
「おはよう、和人」
と、家から出た瞬間、横で待ち構えていた女の子に声を掛けられる。
その声の主は、無論、乙葉 薫である。
「おお、カヲル。毎日毎日精が出るなぁ……たまには一緒に精を出して見ないか? 無論、夜に」
少し姿勢を正しながら返事をする。無論、満面の笑顔とともに。
斜め四十五度の角度で太陽光を浴びた俺の顔は、今まさに綺麗さMAX。そして下品さMAX。
大体の女の子ならこれでコロっと行く(可愛いと連呼される)こと間違いなし、のスマイルだ。
目の前の少女は、相変わらずの笑みを浮かべたまま笑った。
「うん、もう習慣になりましたから。習慣って怖いですね」
うわー、スルーですか。Throughですか!!
そこあたり俺の扱いに慣れてるといわざるを得ないだろう。
「はぁ……習慣ってなぁ……まあ、いいけどな。でも、ホント無理しなくていいんだぞ?」
と、一応聞く。返ってくる答えは、勿論分かってるけど。
「さ、行きましょう、和人」
にこりと笑い返され。何もいえなくなる。そして、仕方なく学校への一歩を踏み出した。
その間に俺は薫を無視して(と、無視しているわけではないのだが、薫は決して俺の前を歩こうとしないので)歩き出す。
と、後ろからトトトっと、薫が小走りで付いてくる。心地よい、距離感。
どうやら、この俺にとっても薫が迎えに来てくれることが習慣となっているらしい。
一瞬だが、この日常が壊れることを想像してしまい、怖くなった。
もし、薫がいなくなったとしたら、その時、オレは………きっと。
「和人、そんなに私に迎えに来てほしくないんですか?」
唐突の言葉。その言葉には、怪訝などの感情は一切無く、逆にからっとして気持ちよかった。
だから、オレも笑顔で答える。
「いや、欲しい欲しくないって話じゃなくてさ面倒くさいだろ? ほら、だって薫の家から学校へ直接行ったほうが近いじゃん?」
と、考えを打ち消すように言う。そうすると薫は一瞬考えてから、
「あーそうかもですね。考えたことも無かったですよ、そんなこと」
恥ずかしげも無く言い放つ。極めて自然に、それが、当たり前のように。
その笑顔に俺は一瞬赤面し、言葉を捜すように言い放った。
「―――っっ……たく…中学のころからそこのところ抜けてるんだよな…薫は」
はぁと、ため息を放ちながら答える俺。といっても、無論本心ではない。
というか、内心は今すぐ薫を抱きしめて襲ってしまいたい衝動にすら、かられる。
はぁ、俺は男失格だな……。あれ、抱きしめないのが男失格なのか??
男は皆狼などとはよく言ったものだ。今の俺はそんな生易しいものではないぞ。ラスカルだ、ラスカル(アライグマ)。
ラスカル滅茶苦茶凶暴なんだぞ、いや。本当に外見からは想像つかないくらいに。
しかし、それにしても薫も女っぽくなったと思う。いきなり話は変わるが。
最初に会ったのが3年前か…。あ、でもそのときもこんな感じだったような……。
うーむ、でも、今とはまったく異なったような……。イマイチ記憶がはっきりしない。
じーっと薫を見る。その視線に気づいたのか薫は『?』を頭の上に浮かべ、見返してくる。
しばらくしても思い出せなかったので、止めた。どうでも、いいことだろう。
しかし、本当に習慣になってるんだなぁと、歩きながら実感というか、体感する。
馴染みの距離感、会話。そして、存在。身近にいる、人であり、オレの理解者。
しかし実際問題、薫の存在は俺の生活リズムの一環であり、毎日待たせないように微妙に気を使って家を出ていたりする。
中学はバスで通っていたのだが、高校になると少し家から近い位置に学校がなった。
だから、俺らは歩きで通学している。きっとそれは、バス通学が億劫だとかいう理由だけじゃない。
まあ、勿論軽く歩いて20分弱。走れば15分と、近いから出来る芸当だが。決して走らないけど。
自転車で行こうかとも思ったのだが、薫が『歩きがいいです』と打診したため、そうなった。
そうでなくとも、何故か家には自転車が無かった。(妹の美咲は持っているが)
スーパーも近くにあって、これまで必要性を感じなかったためだ。
そんなこんなで、俺らは相変わらずの夫婦通学を中学から引き継いだのだった。
「あ、兄ぃ〜と、薫さんも〜お疲れっす!」
と、通学路の前からシャーっと、噂をすれば美咲が自転車で颯爽と現れる。
「ん? 美咲? どした?」「おはよう、美咲ちゃん」
と、俺らは同時に言葉を放つ。
「よっと……ん! おはようございます、薫さん!」
トンっと、軽く地面に降り立つ美咲。・・・相当自転車速度出てなかったか??
しかし、自転車は見事に停止して、美咲の横にあった。信じられないものを見る。
相変わらず、慣性の法則を無視した素晴らしい運動神経だ。しかし、自転車から飛び降りることは無かっただろうに。
草葉の陰でニュートンも泣いてるっての。しかも、俺の質問無視されてるし。
「と、兄か。忘れ物取りに来たんだよ。」
あ、聞こえていたらしい。遅れて返答。
「…弁当か?」
「あはは、残念〜ってか、私、学食派だから。ま、兄が朝起きて作ってくれるなら話は別だぞ〜」
「あほ。そんな無駄なことに時間を裂けるか」
「うにぃ〜お小遣いアップしてあげてもいいからさ〜?」
「うぐ……そ、それは魅力的な………てか、早く行かないでいいのか? それに、家、鍵かけたからな?」
「うに。大丈夫だよ。スペアは常備〜♪」
と、美咲は自分の持っているカバンを掲げて見せた。ちゃりんっと、可愛らしいキーフォルダーがゆれる。
美咲は中学の三年生になった。受験なのだが、夏休みの試合までは部活動を続けるらしい。
部長ではないにしろ、結構重要な(エースとからしいし)ポジションにいる美咲は、このごろ毎日、土日返上で部活に精を出している。
まあ、美咲に言わせれば『普通っしょ〜いまどき。それに、ウチは全国校だしさぁ』らしい。
悪くは無いと思うが、やっぱ多いような気がする。体を気遣う兄としては、ちょっと心配だったりするわけだ。
無論、そんなこと口に出して言おうもんなら、『アーハッハッハッハッハッ。まずは自分の管理をしてからいいなよ?』と一蹴されるに決まっているが。
それと何で薫のことを好きなのかと聞いたこともあったっけ。その答えは『好きになるのは理屈じゃないのだよ、少年』だったけど。
「部活? 頑張るわねぇ、美咲ちゃん」
「いやいや、好きなだけですから。それを言うなら、たいした練習もしないで全国選手だった薫さんがすごいですよ〜。今も大会とか出てますよね?」
あ〜俺が分からん世界に入ってしまった。ちょっと疎外感を感じる。
というか、美咲が一方的に他の人を寄せ付けない壁のようなものを作っているのだ。
それは少し異常なまでに思えるほどだ。会話にはさめるタイミングが無いだけではない。このとき、完全に美咲の視界から俺は消える。
本当に薫しか見ない。しかも、これが起きるのは薫だけなのだ。…異常なまでの執着。自分で思考しておいて、その言葉が恐ろしく感じた。
それにしても、2人は盛り上がってるなぁ…。まあ、薫が何かのスポーツで有名なのは聞いていたが……なんだったかなぁ?
忘れてしまった。…オレの記憶力、やばくない?
「まあね。この前、武道館であったよね? 美咲ちゃんも、頑張ってるんだね」
「ええ、まあ。とりあえずは悔いは残したくないので」
エヘヘと、照れ笑いする美咲。何の話をしているのかしらないが、美咲は本当に幸せそうだ。
薫もそこそこに楽しそうだし、このままでいいような気もする。日常、それを強く感じる。
「っと、兄ぃ、もう行かなくちゃじゃない? 翼さん、待ち合わせの場所にもういたよ?」
と、俺にいきなり話をふってくる美咲。一瞬、身体に嫌な予感が走る。もしや、遅れすぎたか?
「マジかよ……」
そう言われ時計を見る俺。しかし、約束の時間まではまだ余裕があった。
「……マジ、かよ」
本日二回目。それを見て薫が
「ふふ、翼君らしいわね」
と微笑んで言った。
さて。翼を途中の待ち合わせ場所で拾い、そのままいつもの通り3人で学校へと向かう。
梓とその取り巻きは相変わらずバスで通学しており、会うとしても学校から100メートル地点にあるバス停以降だ。
つまり、それまでは邪魔も入らずに暢気な登校が出来るわけだな。
そしてバス停に近づき、バスがゆっくりと去って行くのを肉眼で確認。
神経を、精一杯研ぎ澄ます。辺りの空気の振動すら知覚できるように鋭敏に、塵ひとつも見逃さないように集中して。
目前をサーチ……………ノーエネミー。敵の反応は無い…しかし奴のことだ。
どこから沸いて出るかは分からない。敵の潜んでいそうな場所を徹底的に検索………3件該当。
注意しながらその場に潜み、観測。一箇所目、クリア。二箇所目、クリア。
いつでも撃退が出来るように慎重・かつスピーディーに行動する。
見つかってはいない…。見つかったらやられる。確実に、それこそ完膚なきまでに。
見つかる事はそのままイコールで自らの死、だ。
あたりをサーチ。三箇所目、クリア。……………安全確認。
あたりに、安堵感が戻る一瞬だった―――。
「よっしゃ! 今日は梓と会わなかったな!! あっはっはっは、ゴーリキー、敗れたりぃ!」
どうやら梓軍団はすでに登校した後らしく、バスはすでに去った後だった。勝ち誇る俺。
「はぁ。態々僕らを巻き込んで遅らせること無いじゃない………無理にさ」
あきれたような態度の翼。
「ちょっと梓ちゃんがかわいそうです」
何か怒った雰囲気の薫。
く、くそ!2VS1では分が悪いぞ!
「て、てめぇらはいいだろうがな、コチとら毎日毎日くたびれるまでいぢり通されて、本当にあのバイオトークがトラウマになりかけてるんだぞ!!」
「嘘ばっかり。毎日言い返すために話術の本貸してって言ったじゃない」
「こ、こらっ! 翼!! 要らないことを」
「ふふ、仲がいいんですね」
「か、薫〜〜ち、違うんだ!! 一言ぐらい言い返せないと、それこそ本当に引きこもりになるぞ、俺!!」
ワイワイガヤガヤという比喩が良く似合いそうな登校風景。
しかし、そんな感じで朝の登校風景は、校門をくぐった時点で消えた。
校門をくぐって時点で来る圧倒的な”違和感”。
「…ん?」「……?」「何でしょうか?」
三人同時に声を上げる。いつもの学校に、何か異質なものが混じった、そんな雰囲気。
それは、校舎の出入り口のところに出来ている人だかりだった。
というか、女人禁制……というか、男子ばっかりだが。
それも皆不自然に歩く速度を落としており、結果としてまったく人がいない運動場、そして群がっている出入り口となっているのだが。
「……誰か、いるみたい」
翼が口に出す。単純な観測結果。
「誰かって……この不自然な動きをしてる連中は一体何を見てるんだよ……。誰かっていうか、何かの間違いじゃないのか?」
ちょっとこの光景は不自然だぞ。というか、ある意味圧巻である。濃い藍色の制服が一面に広がっているんだから。
徐々に近づいてゆく。段々と、その人物が、見えて………。
「あ………………」
それは、誰の言葉だったか、思い出せない。
と、ある程度行くと、見えてきた。そこにいるもの。不自然な原因にして、その中でさえ、さら”不自然”に感じるもの。
というか、そこだけ違和感があるとしかいえないような、変質的な感じ。そこに佇む少女に、俺は見惚れてしまった。
「女子…だね。見たこと無いけど」
それはそうだろう。気づく。”彼女がここにいるはずがない”のだから。
何となく、そう思った。後から思えば、何故そう思ったかすら分からないほど、自然に思った。
「巴………」
と、横にいた薫が一言、まるで呟く様に、いや実際に吐息程度のトーンでそう言った。
そこに含まれていた明らかな驚き。そして、恐怖に似た感情。
と、その言葉がまるで聞こえていたかのようにこちらを少女が見て、一瞬だけ目を顰(ひそ)めた。
「あら、薫じゃない…?」
凛、とした声。聞くものを威圧する、それこそ、”相手を見下した”声。しかし、彼女が話すと、それは極めて自然で。
雰囲気に、呑まれる。空気に、飲まれる。空間に、引きずり込まれる。
遠くまで通る言葉。それは空気の振動というより、脳に直接響く言葉。いや、むしろむき出しの感情そのものだ。
「巴、どうして…………?」
普段の薫と明らかに違う薫。そしてその様子を愉しむかのように微笑むと、
「ちょっとした、反乱、かな? 限界って言ってもいいけど」
フフっと、笑う。いや、嘲う。
空気が、止まっていた。いや、そこでは全てが意味を成さない無機物になり下がっていた。
その言葉を話した後、その”巴”と呼ばれた少女は、俺の方へと視線をじっと向ける。
体が、硬直する。空気が凍る。視点が固定される。
俺は彼女を恐れていた。動けない、動けない、動けない。
あったことも無い、そして話したことすらない彼女に、言いようの無い不安を感じる。
と、その空気がとたんに変わる。それは、翼の一言だった。
翼が放つ、”相手を傷つける”だけの言葉。翼の悪癖であり、それは本人がそう認識していない。
”鋭すぎる感覚”だから故に見つけてしまう、人の闇があわられる間。
「ここは、居場所じゃない」
一瞬巴、と呼ばれた女の子の表情が歪む。明らかな敵意とともに翼にそれが向けられるが、すぐに元に戻った。
「巴嘲嘲」
不安そうな薫の声。
「嘲嘲薫、私、もう待ちたくなくないのよ。ごめんなさいね」
そう一方的に言い放つと、その女の子は校舎の中に入っていってしまった。
俺達3人はその場に佇んだまま、ただ彼女の後姿を追っていただけだった。
…あれから。
翼と薫はA組に、そして俺はC組へとそれぞれ向かった。途中、会話はなかった。
いつものムードメーカーである薫は塞込んでしまっているため、俺と翼も会話という会話がなかった。
薫という人間の大きさを感じた時間だった。同時に、自分の小ささも。
クラスに入っても、同じクラスで、いつもは向かってくる梓も、俺の雰囲気を感じてくれたのか何も話しかけてくれなかった。
あの”巴”と呼ばれた少女は一体、誰なんだろうか。それだけが俺の頭の中にあった。
っていかんいかん。何シリアスってるんだ俺は!!と、そのたびに考えを消すものの、それはなかなか俺の頭からは離れなかった。
それから一日。俺と巴と呼ばれた少女は、何回が学校内で合致した。
巴の噂は伝説となり、すでに学校で語り継がれていた。朝の入り口での人だかり。
そして、転入の自己紹介で、一言。『名乗る必要なんて無いわ。だって、馴れ合うつもりはないもの』発言など等。
今日一日だけで多くの伝説を作った彼女だった。そんな中、彼女と会うたびに俺は萎縮し、彼女は笑う。
いや、嘲うのだ。
しかし、その中で、俺は、俺だけは彼女に対して他の違和感を感じていたのだ。
そう、何か懐かしいものを見るような、そんな違和感を。