5月20日

 

 

「……………ふぁ…」

ぴぴぴぴぴぴぴぴ……。朝っぱらから五月蝿い目覚まし時計。それを、叩くように、というか実際にひっぱたいて止める。

沈黙。寝起きは力の加減が出来ないため、一気に叩きつける。そのため…、

「…いたひ…」

毎回、俺は覚醒することになるのだった。つか、いい加減に学べよ、俺。

 

 

「ん? ああ、おはよ、兄ぃ。今日まで超常現象見るかと思ってドキドキしてた」

「おはよう、和人。あら? まだ寝ぼけてるんですね。今日はいつもどおりでよかったです」

朝から階下に行けば2人が食後のお茶を楽しんでいるところだった。というのも。

美咲は相変わらず部活が忙しいために、朝飯は早々と食べているし。

無論、薫は自分の家で食べてきているので、朝食を食べる必要も無い。

結果。俺が起きてくるまで、2人はゆっくりと食後のお茶(無論、俺は空腹)を楽しめるというわけだ。

…まあ、今に始まったことではないから、慣れたけどな。と、内心少し強がってみる。

くそぅ…俺だってモーニングティーしたいわ。でも、毎朝30秒で飯を斯き込む俺にそんな時間は無い。

自業自得だった。滅茶苦茶、自分のせいだった。

「……おはよぅ…顔、洗ってくるわ」

さっさと洗面所へと行き、顔を洗う。五月にもなると朝から熱い。それに、もう少しで入梅だ。

今日はやたらとじめじめしていて、なかなか起きない。何回も水で顔を洗っていると、徐々に眠気が飛んでゆく。

それでも、全身を覆う怠惰オーラは減りはしなかった。

「う〜む……何か、こー、やる気が無い…よな…今日」

と、テーブルに戻るなり突っ伏す俺。はぁと、あきれる我が妹。横で笑っている完全お嬢様。

「みたいですね、和人、何かもう全身の力が抜けてますよ?」

「仕方ないだろ〜ってか、何だよ、この暑さは…朝の気温じゃないだろ…」

「うにぃ〜。兄、もう少しシャキっとしてろー。てか、その怠惰オーラが私にまでうつっちゃいそうだよ」

「…うつしたら治るかな? 風邪みたいに」

「増えるだけだよ、馬鹿兄」

もっともだった。

さて、俺は目の前に用意された朝食を食べる。といっても、何故か朝食も少しやる気が内容で、コンソメスープやらサラダやらは、残り物だったりインスタントだ。

うむ…やはり、少し美咲もダラけているようだ。

「それにしても…朝からこの気温は何だよ…」

悪態をつく。

「うに。正直、キツイよね…これは。ミントンなんてやったら3回は死ねそうだよ〜」

………また、部活増やしたのか、コイツは。サイコな女の子だった。

まあ、元気が余ってる位が丁度良いってのが我が家の教育方針だからな。いいんだろうけど。

「はい、そうですね。それに、これは直射日光の暑さではないですから」

「うむ、湿気だな、完全に。雨でも降るのか?」

「んにぃ〜微妙ッス…降水確率40%、だそーです」

新聞を広げながら美咲。本当に微妙だ。……まあ、40%なら雨は振らないだろう。

「傘は、持って行かないことにする。俺は、降らないに賭ける」

「………兄ぃ、賭け事弱いじゃん。持って行っときなよ、予備として」

「そうですよ、和人。備えあれば憂いなし、ですよ? そこまで重いものでもないですし…」

「いや、面倒だしさ。それに、ウチの学校大きいからすぐに傘がなくなるんだ…この前だって、確か3か連続でコンビニで傘買ったぞ、俺は」

「それは、私の傘に入らないから…」

薫が何気に抗議する。…いや、そんなに睨むな、我が妹よ。

てか、入れるか。男として。そんなシチュエーション断じて認めん、男として。

「……ま、まあともかく、40%なら、両天秤にかけたとしても半分以上降らない訳だし…大丈夫だよ」

俺は、2人の意見をさえぎるようにして、会話を終わらせた。

少し、意地になっているのが、自分でもわかった。ああ、いつもどおりじゃなかったのか、久良木和人?

 

 

……で。4時限目の終わり。つまりは、昼休み。

あたりはなにやらノートを見せ合ったり、試験問題を予想したりと慌しい喧騒に包まれている。

いつもなら学食に、チャイムアンドダッシュをする連中も今はおとなしく席について買ってきたパンなんぞをかじりながら勉強しているのだ。

「…もうすぐ、期末か…」

そういえば忘れていた。そろそろ6月に入るんだよな。6月から7月の間にウチの学校では期末試験がある。

そしてそのテストに受かったものは、7月&8月が丸々夏休みになるというスーパーお得なのだ。

逆に言えば。受からなかったものに休息は無い、そういうことだった。

天国か地獄。そう、それはまさに生徒の運命の分かれ道。

学生という身分に収まっている以上は避けても通れない道。

それが、テスト。中間テストは期末テストの20%分だから、まあ最低限の努力をしておけば10点はもらえる。

問題は、この期末テスト。ここで点数を取れば、なんとまるまる2ヶ月が夏休みとなるのだから、学生も勉強をするはずだ。

ここあたり、俺らの高校は上手だなと感心するところだ。さすがジャンボ高。

それに、これは夏休みの部活動の大会のことも吟味した上での結果らしく、部活動は今の時期は全面中止。

生徒会などの生徒による自治会も、表向きは例会を行っているものの、実質は活動休止中だ。

それくらい、今の時期は全学生が躍起になって勉強をする時期なのだ。

かという俺も、流石にそこまで優等生というわけでもないので、勉強しているわけなのだ。

テストのシステム自体も変わっており、最初から出題される問題は分かっている。

だから、その問題に対して、どれくらいの完成度を持って正解できるか。それがネックになってくる。

この方法はますます凄い。この方法は、もしや勉強しない生徒があわられるか?と思われたのだが、その逆。生徒はこぞって完璧を目指して勉強する。

そして、自分なりに100%の答えを見つけ出すのだ。

他人とまったく同じというのは無論NG。というか、そういう生徒も最初はいたらしいのだが、例外なく補修送りだった為、今ではやる人間はよほどの酔狂だけということになっている。

「……それにしても、なぁ…」

俺は横で並んで勉強している翼に声をかける。…? と頭の上に疑問符を浮かべこっちを見てくる翼。

やがて、俺が窓の外を見ているのに気付き、そちらを見て、また、こっちを見た。

「傘、忘れた?」

うお、ビンゴだった。いや、半分ハズレだ。

「ああ、まあな。朝は40%だっただろ…降水確率。だから、持ってきてなかった」

「? 嘘。今日は80%だよ」

「は? そ、な…馬鹿な…ち、あの阿呆美咲……」

間違いか。それも、今日に限って。それに、あいつ自身は予備とかいって持って行ってるため平気だろう。

備えあれば憂いなし。まさにその通りだった。外は大雨。それも、ところどころ雷含む。

「ふふふふふ〜。そこの、そこの。ちょっと良い情報があるのだが、耳を貸さないかい?」

「…………その声は……梓か…残念。傘なら無いぞ」

寄ってきた梓は、その一言で撃沈する。…最近、妙に感が冴えるなぁ。

「ち、ちょっとぉ!!それって、どういうことだよ!!!」

逆ギレかよ。つか、言われ無き暴言だな。

「どーもこーもあるか。ちょっとした些細かつ微妙なズレから生じたほんの小さな手違いだよ」

「嘘つくなっ!! 折角、ボクが一緒に帰ってあげたのに」

「ぷじゃけるなよ。てか、てめーはバス通だろうが。お前の家まで帰ってたら、家に変える頃になったら10時まわるっての!」

「むむむ…さっさとボクに傘をよこして、貴様は薫と相合傘で帰ればいいものを」

「ぷ、ぷじゃけるなよ? 何で俺が薫と一緒に帰らにゃならんのだ? それに、薫家は俺の家と方向違うだろうが」

「あーもう! くどい!! メンドイ!! さっさとその傘を寄越せってば!!」

「ぷじゃけるのもいい加減に………? って、どの傘だ?」

「貴様のカバンの中から見え隠れしているヤツだよ!」

俺は自分のカバンを見る……あ、あった。どうやら、朝薫が入れてくれていたらしい。

「…相変わらず、薫さん気が利くね」

横からぼそっと翼。

「ってなわけで、寄越せや!!」

「ぁぁああっ?! そんな簡単に渡せるかっての! この世は等価交換が原則なんだよ! 働かざるもの喰うべからず。因果応報。弱肉強食に大同小異!」

「和人、頭悪い。国語落ちるよ? それじゃあ…」

「ぐむむぅ〜〜、なら…ボクと一緒に帰れる券1枚でどーだ!」

いつもよりも凄い気迫で迫ってくる梓。だが、俺もそう簡単には退けない。

「却下。てか、おめーだけが得してんじゃねーか。つか、そんな地獄への片道切符帰るか!! 金積まれたってゴメンだっ!!」

「む。だったら、ボクと手を繋げる券1枚なら!?」

「却下。お前の握力俺より強いからな…握りつぶされるのがオチだ」

「むむ。だったら、ボクを……一日好きにしていい券1枚って…のは?」

お? これは大胆なことを。よし、このノリのままその券をゲットして…

「っま、有効期間今日の下校時間だけだけどさ♪」

「短いっての!! どっちかってと、オレが好きにされる券、だろうが!!!」

用意周到だった。てか、一枚上手だった。てか、期間限定だった。

「あーったく! 優柔不断な和の字! じゃあ何が良いのさ! さっきから人の意見を否定してばっかりでさ。まったく、これだから保守派の連中は」

「だから、俺はこの傘を誰にも渡す気はないっての!! 最初からオレは自分の意見しかいってねーよ!! 改革するつもりないしっ!」

てか、渡したら死ぬ。渡さないと殺されるかもだけど。

「はぁ…和の字〜なら、これならどーだ!!」

じゃん! と手を上げる梓。その手には何やら握られている…って、手?

それは、人の手だった。そして、その主は…

「…え?」

あ、千佳ちゃん。

「千佳を一日好きにして良い券1枚!」

…。

「ええええ〜〜〜!!?? ちょ、ちょっとアズっち!!!! そ、それは…」

「ふふふ、どーでさー旦那。この胸、この腰、丁度熟れ頃ですぜ〜。それに、コイツならちょっと手を施しただけで大人しくなりますぜ?」

…奴隷商人か貴様は。つか、それっぽい。

「却下だ。大体、千佳ちゃんは関係ないだろ?」

「そ、そーだよアズっち!! 私、関係な…」

「いや、千佳。この前のカリ、どうする? 今、返さないと返せないんじゃないかなぁ〜?」

「う、そ、それは…」

弱みを握られてるみたいだな。何か。一気に萎縮する千佳ちゃん。

「…大丈夫だよ、和人に、そんな襲う勇気ないから」

何故か打って変わって諭す口調の梓。その口調に『ううぅ〜』と言って弱っているチカちゃん。

や、やばい!! ”オト”されるっっ!!!

「そーですよ。私なんて昔から夜部屋に遊びに行ってますけど、未だに押し倒されたこと無いんですから」

横からさらっとひどいことを言う2人。…てか、翼はともかく、何でここにいる薫?

「えっと、何か楽しそうでしたから」

あ、っそ。つか、愉しまないで下さい。

「さあさあ、どーすんの?千佳、そして和の字」

勝ち誇ったように笑う梓。周りの人間も引いてるっての。

しくしくと涙する千佳ちゃん。あー、何か売られる奴隷そのものって感じだな。

「んなの、取引として成立してねーっての!! たかが傘で………」

俺は言葉を失う。その言葉を行った瞬間、明らかに俺に放たれた殺気…その主は、

…あ、巴。そのまま教室にツカツカと入り込んでくる彼女。

そして、俺の前に来る。その間、先ほどまでの喧騒はどこへ行ったか、教室全体が静まり返る。

絶対感。この世の力の差を、肌で感じる感覚。

支配感。目の前のものは無条件で危険だと述べる感覚。

緊張感。体が自由に動かず、自分とうものが極端に薄くなる感覚。

それが、空間を支配していた。中心には無論、森崎 巴その人。

絶対的な威圧感と、殺気をまとい、俺の前に立つ。

 

空気が、変わる。いやむしろ、空気が”喰われる”。

 

一週間前、俺が拒絶されてから、俺は幾度と無く彼女と話す機会を作った。

結果はいずれも撃沈。てか、撃退すらされておらず、俺すらまるで空気のような扱いだったのだ。

久しぶりに、目を向けられ、俺は何も言えなくなる。澄んだ深緑色の瞳が、俺を捉えて放さない。

「…薫、随分下らない事で争っているのね」

一言目はそんな内容だった。薫は、何もいえない。いや、言わない。

この一言は彼女にとっては何も意味を持たない。感想程度、それでしかないのだから、返す必要も無い。

と、彼女は目線をしっかりと俺に向ける。

「……和人、困ってるの?」

「……え?」

周りの空気が変わった。いや、今までの空気が嘘だったみたいに、軽くなる。

それは。彼女から放たれていた殺気が、変化した結果だった。

純粋な、心配。言葉はいつも通りだったが、明らかに込められている感情が異なる。

「和人は、困っているのって聞いてるの」

「…ああ…」

まあ、困っているといえば困っているが…それにしたって、何でコイツがこんなこと言い出すんだ?

その急激な変化について来れないまま、俺はそうこたえる。あたりには相変わらずの沈黙。

全員が俺と巴の会話に耳を傾けているのが分かる。それは、ある意味観察というより、見物という感覚。

威圧感は衰える事は無いのだが、そこには彼女らしからぬ、”人間として”の感情が見え隠れしていた。

「そう。なら、コレ」

そう言って彼女は自分が持っていた傘を差し出す。何故、今?

それは極一般的な傘だったが、彼女が持つとまるでそれが高級品になったみたいな違和感を覚えるから不思議だ。

「こ、これは…お前の?」

「…そう。はい、あげるわ」

すっと、傘が俺の手元に降りてくる。

「巴…」

と、横で薫がやっとのことで息を発する。

雰囲気は幾分か楽になっていたものの、まだ普通の空気よりは重かった。心配をされているのは俺自身だけらしく、他の皆は固まっているし。

「…薫、これが私の望んだこと…私は、和人の奴隷…」

その言葉で、周りの空気は凍りついた。流石の翼も言葉をなくす。あたりは、今、本当の意味で凍り付いていた。

誰も動かない…というか、思考が凍りつく。

「ど、奴隷って…? い、意味がわかんねーぞ…」

俺はそんな中、訳分からずに言葉を発するものの、目の前の巴は何もこたえない。

あたりの視線を平然と受け、先ほど言った言葉はなんでもないような態度をとっている。

「…もう、用件は済んだ。私は、消える」

少し時間がたってから、彼女は一言そういった。そのまま辺りの皆の視線を振り切り、教室を出ようとする。

その態度に、

「………いや、待てって!」

俺はとてつもなく腹が立った。だから、俺は呼び止めた。

「俺は納得できてない。奴隷だとか、そういう意味不明なことよりも、だ」

俺は目の前の傘を差し出す。

「お前は、濡れて帰るんだろ?」

一瞬の沈黙。顔は見えない。

「……別に、これは私が望んだことだから」

「そんな事は聞いてない。それは公平じゃない」

俺は、怒っていた。誰もが黙っていた。

正直思考は停止しているし、もう自分でも何を言っているのか分からないが、それでも一つだけわかる。

俺は、怒っている。自分を大切にしない態度に、だ。

先ほどからこの目の前の少女は、自分というものが無い。

見ている限り、この少女には意思のようなものが無い。いや、正確には殺している。

それが、俺は何故か許せなかった。だから、俺は怒っていた。

まるで、それは自分自身が犠牲になることだから。

この世で一番おろかな行為、それは自分を犠牲にすることだ。

自らを犠牲にして他人を助けるなんて、愚の骨頂。それで本人が満足しているものだから、さらに資が悪い。

いやむしろ、自らを犠牲にすることで誰が傷つくのか、誰が悲しむのか、そういった事を全く考えていないガキの屁理屈。

それは、はっきりいって頭にくる。自分を蔑ろにして、他人を助かるなんてバカのやることだ。

自分と言うものをちゃんと擁れてそれで初めて他人を擁ることができるはずだ。

自分を蔑ろにするようなやつに、衛ってもらうつもりもないし、願い下げだ。

そして、目の前の少女はまさにその典型といえる。自分の意思ではない。他人の為に行動している。

巫山戯るなと全力で言ってやりたい気分だった。

「俺が、コレを受け取るのが嫌だ、って言ってるんだ」

もう、自分でも滅茶苦茶なことを言っているのは分かったが、そういわざるを得なかった。

ここでコレを受け取ってしまうこと、それそのものが、彼女を容認してしまうということだと思ったからだ。

俺は認めない。認めたくない。自分自身というのは大切にするべきものだ。決して、人の奴隷なんて言葉を軽く発して良いものではない。

自分が誰かのために犠牲になっていいなんて、そんな事は、あってはならない。

「……和人は意味不明なこと言ってる。わかってるの?」

と、今度は相手の拒絶。しかも、今回のは確実に怒りが含まれているのが分かった。

明らかな、敵意。そして、殺意。

「それはお前だ! オレはお前の意見を認めてないぞ、第一」

「認める認めないは関係ないわ。私が望んだからしてるだけ」

「それが嫌だって言ってるんだ」

ぐいっと、目の前に傘を突きつける。相変わらず空気は凍ったままだ。

「返す」

「いらない。それは、和人のもの」

「お前は、どうやって帰るんだ?」

また沈黙。

「…そんなの、和人の気にすることじゃない」

腹が立つ。コイツの態度全てに腹が立つ。

「…ふざけんな。お前、濡れて帰るつもりかよ…たかが、傘だろ? こっちとら遊びみたいなもんだ。どうせもいいんだよ」

「どうでも………」

「…よくねーっていってんだろうがっ!」

相手の声は、俺の声にかき消される。こうなったら自棄だ。

オレは本当に頭にきた。この目の前の少女に、言い知れない怒りを感じる。

”自分が無い”。先ほどの奴隷発言といい、こいつには自分の事が見えていない。他人ばかりに気をとられすぎているために、回りが見えていない。

巫山戯るなと言いたい。オレは、そんなやつから御節介を受けるほど墜ちちゃいないし、それをされる気もない。

オレは、こいつをどうしても許すことができそうにない。同時に、オレは目の前のコイツにたいして怒りをぶつけたい衝動を感じる。

自分の事を考えていない愚か者に、それを身を以て教えてやる。

学校とか、地域とか、法律とか、外見とか、全部関係なくこいつを殴りたい。目を、醒まさしてやりたい。

何故お前は、自分を蔑ろにするのか、と。

「待って。和人、間違ってる」

途端、後ろで声がする。

「…和人、怒るのは分かるけど、それは間違ってる。和人自身も、自分を蔑ろにしてる。違う?」

翼の、一言。…一瞬で冷静になる。

頭に上った血が、一気に下がる。

………。

そうだ…その通りだ。翼の言うとおり、俺は、自分のことを…。

自分を捨ててまで、目の前の少女を…。俺自身が犠牲になってどうするってんだ…。

「………わかったよ、翼。でも、森崎。俺は、お前が濡れて帰るのは嫌だ。どうしても、どうしてもこの傘は返さないのか?」

少し時間がたち、思考もまとまった後で、俺は本心を口にした。

これでフェミニストって呼ばれても仕方ないような台詞だが、俺はそれが本心だった。

誰かが、俺の代わりに犠牲になるなんて、絶対に嫌だった。

「………勿論、無いわ」

「だったらさ……」

俺はとりあえず傘を巴に渡し、

「今日、放課後、一緒に帰ろう。な?」

笑顔でそう言った。その言葉で、巴は初めて人間らしい表情を見せた。

意外…というか、明らかな恐れのような、そんな表情を。次の瞬間、チャイムが鳴り、時が流れ出した。

 

 

放課後。

後悔、していた。

相変わらず雨が降っている。そして俺は昇降口、ある人を待っている。

無論、彼女を。いつも途中まで帰っている薫は、やはり未だに巴が苦手らしく

『ちょっと、今日は予定がありますから…』

と断ってきた。翼も、

『…ボクがいても、何も無いしね』

と率直な意見を言ってきた。

「ったく…何でこんな事になったんだか…」

はぁと、毒づく。でも、無論本心ではない。

というか、今までにそういう経験は、実は和人には無かったためだ。

…まあ、外見のこともあるのだが。それ以上に、

「…苦手なんだよな…こういうの」

そう、苦手なためだ。雨の降っている学校の校庭を見る。そこには数人の姿。

赤、黄色、青などカラフルな傘は見られず、ほとんどが黒か透明。

個性というものを塗り潰された人間を象徴しているかのような、光景。

異端は排除され、皆同じということが好まれる時代。

まったく、このどこが”自由”なのか。コレが今の世界が望んでいる姿なのだろうか。

だったとしたら、吐き気がする。こんな世界、面白くない。

「…まさか、本当にいるなんて、ね」

と、後ろから声がする。いつもの声。だが、その声の中に含まれている感情が、いつもより分かりやすかった。

ようは、恥ずかしいのだろう。それは、少しだけだけど、可愛らしかった。

「…いちゃ悪いか。俺は、俺のせいで誰かが犠牲になるなんて嫌なだけだ」

顔を見らずに声をかける。てか、相手のほうが身長が高いので、あんまり目を合せたくない。

何となく、男女が逆転しそうだから…。

「犠牲って、そんな大げさじゃないでしょう。まったく、和人は人が良すぎるわ」

「…言ってろ。ほら、来いよ…」

台詞だけなら不器用な男そのものなのだが。

周りの人間が見たら、どうみても女の子が男を待っている姿なのだろうな。

「…諦めた。私の負けね。分かったわ、帰りましょう。ただ、ひとつだけ言わせてくれない?」

「……なんだよ」

「傘は、私が持つわ」

…何も言い返せない自分がちょっと嫌になった。俺はコクっと頷く。

「なら、行きましょう」

と、巴はさっさと先に歩き出す。俺は広げられた傘に滑り込むように入り込む。

巴が、近く感じる。その少女は触ったら切れるような鋭さを持っていた。

最初は拒絶。しかし、段々と彼女のことが分かってきた。この力強い背中も、彼女の精一杯の演技なのだと。

理由は知らないけど、彼女は何かに囚われているのだということ。そして、彼女は、自分に似ているのだということ。

「…おい、森崎」

「…何?」

校門を出て曲がって少し行った所。雨の中、二人分の足が並んで歩く。傘という極めて接近した空間で。

「肩が濡れてる」

「なら、和人もカバンが濡れてる」

沈黙。そうして、

「…なら、寄れよ」「もう少し、寄ったら?」

ハモった。またまた沈黙。

二人は示し合わせたように少し距離が縮まる。もう肩を合わして歩いている状況だ。

でも、不思議と恥ずかしくない。彼女もどう思っているのか知らないが、相変わらずの鉄仮面だった。

「歩きにくいな」

俺は、呟いた。だが、彼女は何も言わない。その後、俺たちの間に会話は無かった。

しかし、少しだけ、俺は彼女のことを理解できた気がした。

『変わってないわね、和人は』

その言葉は、雨が傘にあたる音で聞こえなかったフリをした。

ったく、慣れないことをすると、疲れる。だが、たまには、いいかなと、思えた。

 

 

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