07月30日 (2)
それから。
俺の体調は少し休むと、まるで嘘のように回復した。梓からは『仮病でしょーに』と悪態をつかれたりしたが、本当にそう思えてしまうほどの完治っぷりだった。
朝飯を全員で食べ、そして最後の掃除。テントを片付け、食器を洗っている最中に、源氏さんが来る。どうも、待ち合わせの時間は過ぎてしまっていたらしい。
片づけを源氏さんに手伝ってもらって、そしてキャンプ場を後にする。管理人の人に一言挨拶をし、そして車に乗る。
そのちょっと前に例の飲み水が湧いているところまでいき、水を取ってきた。とても、澄んだ水が気持ちよかった。
ともあれ、それからキャンプは何の滞りも無く終了する。
俺は不安を感じなかったわけではないが、あまり楽しい気分で居られるはずもなかった。
そんなこんなで、解散。とりあえず顔馴染みの梓は車で乗せて行ってもらうというコトなので、学校前でお別れする。
家まで乗せて行くと行って聞かない源氏さんを何とか言いくるめ、学校で降ろしてもらう。
「そいじゃ! また、夏休みが終わったらまた逢おうぜぃ♪」
「バイバーイ☆」
ドップラー効果で遠ざかって行く声。自動車の音。二人に手を振り、後の学校には3人の姿だけが残った。
「………終わりましたねー」
「ふ、まだだぜ、薫。家に帰るまでがキャンプだ」
「…もう、折角人がいい気分に涵ってるんですから、茶々いれないで下さい」
むすっとなる薫、こんな薫は今まで見たことは無かった。そういう薫こそ、新鮮でよかったのだが。
時刻は夕暮れ。キャンプ場を出たのが昼前だったのだが、梓の提案により少しだけ遊んで、遅くなってしまった。
「…それにしても、思いのほか労れなかったかも…」
「…そうか…翼、見る限り結構憊れてると思うケド…?」
「…労れてはいるし、実際頭も少し痛いけど…」
ふと、翼は微笑んで、
「楽しかったし」
そう、確かに言った。
「…………」
「…………」
その笑顔に固まる二人。そして翼はいつもの無表情に戻って、俺らを不思議そうに眺める。
「……ま、楽しかったな」
「ええ、同感です」
同意。確かに、楽しかった。
色々変わったし、壊れてしまうかもしれないけど。
とりあえずは、楽しかった。そう、純粋に思える。
不安は、あった。だが、不安を消し飛ばせるほどの、幸福感に似たものも確かにあった。
ずっと、今のままでいたかった。今のままがよかった。
「……それじゃあ、和人、翼」
くるっと、俺らが歩き出した方向とは別の方向へと足を向けて、一歩踏み出す薫。
「?」
イマイチ意味が分からない俺。
「うん、そうだね」
翼は一瞬で理解したようだが。
「………………………………そっか…薫の家、こっちから行った方が近いのか…」
踏み出したことも無い、道。今まで、少なくとも俺が通ったことは無い。
通ったことの無い、道。それは俺の歩いたことが無い道。知らない、道。
歩いたことの無い、道。どこに続いているのかも分からない、そんな道。
薫は、その道を一人歩いていかなくちゃいけないのかと思うと、少し戸惑いを覚える。
ひどく、薫が小さく見えた。
「…はい、今までは和人の家から来てましたけど、これからは…」
そこまで言って、笑顔。何となく、実感。
不安は無い、寧ろ今胸にあるのは称賛。
「…ああ、そうだな…ただ、偶には、顔を出してくれると、嬉しい……美咲が、喜ぶよ」
『俺が』といいかけて、止まる。それを言って、どうなる?
「……その、美咲とか、お前を崇拝してるしな」
正直に言えないのが少しもどかしかったが、その言葉に薫は大きく頷いたのだった。
「はい、きっと」
そして、分かれた。それぞれ、今までとは違う道を、違うメンバーで。
「……じゃあね…和人…」
そして、最後の付き人の別れ。
「…ああ」
言葉は無い。梓たちの時のように手を振らずに、薫のときのように別れの言葉も無く、俺らはわかれた。
今更、そう云うものは要らなかった。
「…その、和人」
と。珍しく、翼の方から話しかけてくる。
「何だ?」
気軽に返す。
「……言おうかなって思ったんだけど、チャンスなくて言えなかったんだけどさ…」
「おう?」
「うん…どうもね、能力、無くなりかけてるみたい…なんだ」
「…は? 能力??」
体半分向きなおす。丁度太陽を背にして、没みゆく夕日が翼を照らす。
「あの、能力。何か、無くなってるみたい…正確にはまだ結構辛いんだけど、でも、前に比べたら、かなり」
「……」
おどろいた…といえば嘘になる。だが、驚かなかったと言えばもっと嘘になる。何故…とは聞かなかったし、聞けなかった。
ただ、ああそうなのか、という受動態。同時に、翼すら俺から離れてしまうかのような、不安。
「……そっか…なら、普通に、昨日の飯とか忘れるのか?」
「…流石にそれは覚えてるけどさ…」
―――ちなみに俺は覚えていない。えっと、カレーだったか?
謎だ。む、俺の記憶ももしかしてなくなってる?!
「ちなみに、BBQ」
あう、見えてるじゃんか。
「………だから、和人。僕、もっと色々なことしてみようと思うよ」
「………ああ…」
正直、気圧されてて何も言えなかった。まるで、そう、まるで皆俺から離れて行ってしまうような、そんな妙な感覚になる。
「じゃね、和人…夏休み終わったら、また」
そう言って、翼は背後を向けた。そしてすぐに、太陽に反射してもう翼は見えなくなってしまっていた。
「よっと…ただいまー…」
暗い玄関。
「…あ、そっか」
そう言えば出て行く前に美咲は部活の合宿とか何とか言っていた気がする。まだ、帰って来ていないのだろうと結論付ける。
汚れたシューズを脱ぎ、そして慣れ親しんだ家に上がる。上がった瞬間、忘れていた我が家の香りと言うものを、改めて実感する。
そのまま、リビングへ。テーブルの上には何も無い。それは当然だろう。
テーブルの端にある電話が、留守番電話のランプを点滅させているだけ。とりあえず、『再生』ボタンを圧す。
『留守番電話は全部で 5 件です』
機械性の声が響く。
『新しい伝言、 1 件目、 7 月 28 日の午後 03:50 デス』
あれ?この日は、俺が出発した日だ。
出発したのは午前中のうちだったので、このメッセージは美咲がいるなら聞いているはずなのだが…。
『あの〜美咲ぃ? ケータイも繋がらないから、こっちにも留守残すケド…えっと、どこにいるの〜?? とりあえず電話チョーダイ! ピー…』
―――どくん
何かが、変だ。そう、感じた。何も変なところは無い。多分、待ち合わせでもしていて、おそらく美咲が遅れたのだろう。
ケータイに繋がらないのは、充電を忘れているとか、よくある話だ。
……なら、何だ、この、胸騒ぎは?
『新しい伝言、 2 件目、 7 月 28 日の午後 4:10 デス』
『もしもし、久良木様のお宅でしょうか? 美咲様に伝言です。えっと、先生です。もう少しでバスが出ます。まだ家にいるのなら、今すぐ電話を下さい。お願いします。ピー…』
「………」
―――どくん。
まだ、普通かもしれない。美咲は確か部活だったような気がする。多分、大慌てで学校へと向かっていた途中なのだろう。
まったくあわただしいヤツだ。少しくらい余裕をもって家を出て行けばいいのに。
『新しい伝言、 3 件目、 7 月 28 日の午後 4:15 デス』
『部長の笠原です。美咲〜〜急いで〜〜〜本当に来れないよ!!!! マジ頼む!!! てか、連絡下さい!! ってケータイは…? ダメかぁ…ピー…』
背後で何かが聞こえて、電話は切られる。
『新しい伝言、 4 件目、 7 月 28 日の午後 4:20 デス』
『ごめん…もう、待てないみたい…これ以上待つと、試合に出れなくなるんだよね…てか、出れないなら連絡欲しかったなーみたいな……じゃね…ピー…』
―――どくん
………美咲は、間に合わなかったのか? どうも、”出発する”って言ってたし。
不安が、徐々に大きくなる。いや、その時点ではまだ不安でえはなく、単なる”胸騒ぎ”。
『新しい伝言、 5 件目、 7 月 29日の午前 9:22 デス』
『えっと、美咲、マジでどうかしたの? 本当に心配です、連絡………く…い…ピ……
ぐらり。
<<昔、妹が居た>>
―――そう、可愛い妹だった。僕の自慢だった。
<<妹はとても病弱で、いつも僕らが遊ぶのを見てた>>
―――アイツはいつも寂しそうだった。でも、一緒には遊べなかった。
<<可哀想だったけど、でも仕方無かった>>
―――ママがそう言った。パパは何も言わなかったけど、何となくわかった。
<<妹は、いつだって泣き虫だった。>>
―――僕がいるから。僕が居るから。
<<だから、僕が守ってあげてたんだ>>
―――ずっと、ずっと、アイツのお兄ちゃんだから。
<<僕が、お兄ちゃんなんだから>>
ぐらり。
「……っはぁっ!!?」
ぐらり。ゆらり。
吐き気がする。気持ちが悪い。世界が回り、傾き、拗れる。歪み、曲がり、廻る。
気持ちが悪い。気分は最悪。気持ちは不安。何かが起きた。
―――妹……は、昔病弱だった…
苦しい、苦しい、苦しい。呼吸をするのすら苦痛。
頭が痛い、痛い、痛い。キリキリと何かが締め付ける。
止めろ、止めろ、ヤメロ。これ以上見るな、見せないでくれ。
痛い、苦しい、回る、痛い、苦しい痛い、苦しい痛い、回る、痛い、苦シイ痛イ、回ル、イタイ、マワル、イタイ、クルシイ―――
記憶が戻る。
「昔………はぁ…美咲は、病弱だった…?」
消えていた過去。埋もれていた過去。何故今になって、何故今?
分からない分からない、でも、ひとつだけ分かる。
美咲は、部活には行っていない。ケータイの電源も切れている。
部活のメンバーは、次の日にも連絡をしてきている、そのときも美咲は出ていない。
勿論、ケータイに繋がらないから家に電話したのだろう。
そして今、部屋の中は静まり返っている。玄関に美咲の靴はあったか? 思い出せ、思い出せ、思い出せ―――。
……あった、気がする。タシカではない、でも、それは俺の中の現実となる。
――――――美咲は今、どこにいる?
「美咲ぃぃっ!!!」
いる。いるはず、おそらく、いるはずだ。
俺の部屋を蹴り破る。もうドアを開けるのも面倒なほど、頭が痛い。
そこには、一人の少女が倒れていた。ただ、倒れていた。
かれこれ、三日。ずっと倒れていたのかは分からないが、意識は無いようだ。
意識があって動けなかったのかは謎。その横には、吹き飛ばされたように転がっている携帯電話。
布団の上には、嘔吐の後。そのまま、生生しく凝固してしまっている。
美咲の顔は真っ白。それこそ、死んでいるのを想像してしまうくらい、真っ白の白化粧。
「美咲ぃぃぃっ!!」
揺れる、揺れる、揺れる。
朦朧としたまま救急車を呼ぶ。ダイアルを考えずに、ぱっと思い浮かんだ110に電話して、住所を言う。
意識が途切れかかる。頭が痛い。
―――再び、俺の意識は没む。