08月01日
あれから、どれくらい時間が経っただろうか。わからない、分からないが、未だに俺はどこにも帰らずに居た。
雨が降っている。昨日の…何時だったかは分からないが、降り出した雨は未だに降り続いていた。
体は已にびしょびしょで、体温なんぞは冷え切っている。
体を丸めるように木の幹に押し付け、少しでも雨が体を濡らす範囲を減らす。
体を小動物のように丸め、必死に寒さを怺えていた。体は已に感覚は無く、意識は朦朧としている。
ただ、降り続いている雨のみが、意識を暗闇から引き出してくれる。
「………」
無言、無言、無言。
誰も、そして何も言葉を発しない。体の巡りは音に包まれ、声すら塗りつぶされて消えてしまう。
時には優しく、時には厳しい雨は、今はどちらかというと厳しい方のようだ。
あれから、どれくらいの時間が経っただろうかと、もう一度自問する。
それは辛うじて意識を保つための行為であったし、自己を確認するための作業でもあった。
あれから…夜が来た。そして、朝が来た。
雨雲が被さった空は、正直分かりにくいが、それでも暗鬱とした暗闇の中、漠然と曖昧に朝を感じることが出来た。
言うならば、それは空気。町の明かりが点き、そして人々が活動を始める合図。生命の、声。
そんなものが漠然と朝を伝えていた。依然として空は晴れないし、依然として暗いまま。でも、その中に少しだけ、人々の生命が見えた。
だが、俺はそこには入れない、ただ、体を丸くして踞っていただけ。
「………」
無言、無言、無言。言葉は無く、感覚も無く、意思も無く、意識も虚ろ。
悲しみの禄、希望の果て、絶望の始まり、そして崩壊の始まりにして、終着点。
あの男は言った。
『これは、とびきりのトラジディ』だと。
まさにその通り。正に悲劇。いや、ある意味喜劇。
中心に居るは憫れなピエロと、それが繰り出す荒唐無稽の物語。
笑わずには居られない、そんな憐憫な物語が、喜劇であらんはずが無い。
そう、思う。笑えない、喜劇を、リアルタイムに見ている俺。
いや、俺は主人公。その、憫れなピエロそのものなのだろう。
<<昔、妹が居た―――>>
思い出している。
妹は美咲と言う名前だ。体が病弱で、そしていつも俺らのコトを離れてみていた。
遠い存在、そんな存在を、俺は可愛相だと思っていた。だから、美咲が元気になればと、何時も願っていたんだ。
いつも、一緒に遊べればと思っていた。だから、俺は妹が大好きなのだ。
<<昔、僕は一人の女の子に逢った―――>>
思い出している。
女の子は俺と友達になった、あの病院で。確かに俺は昔、病院である女の子と友達になった。
そして、そこで…。
死ぬ、死ぬ、死ぬ。
死ぬ?
―――いや、死んだ。
一回、死ぬ。俺はそこで死んだはずだった、だから俺は死んでいるはずなのだ。
だが、生きている、何故か、俺は生きている。
<<気づけば、人と違ってた。だから、分かってくれる人が欲しかった―――>>
子どものような容姿。女の子のような体。
弱弱しい体は、明らかに病的で、そして俺は辛かった。
必死に言葉で詐って、必死に態度で誤魔化して、必死に自分を圧し停めた。
人と違う。それに、恐怖を覚えた。だから、判ってくれる人が欲しかった。誰でも良かったんだ。誰でも。
<<俺に構ってくれる人が欲しかった>>
俺はいつも一人だった。ずっと、一人だった、一人だったと思う。
友達はもう覚えていない。子どもながらに、やはり一年も病院に居たら忘れられるものなのかもしれない。
時期も悪かったというコトもある。同級生は小学生になり、俺だけが取り残された。
思い出になり、俺は一人になった。だから、構ってくれる人が欲しかった。
理解者が欲しかった。俺と同じような不安を抱えて生きているような、そんな人間が欲しかった。だから、願った。誰でも、よかったんだ。
<<不安が、消えなかった。だから、少しでも不安を忘れれるひとが欲しかった>>
いつも不安だった。崩壊というか、終わりをいつも意識した。
子ども時代のトラウマからか、それとも記憶が曖昧だったせいか、俺はいつも何かに不安を感じていた。
不安は現実となる、確信もあった。幸せであれば幸せであるほど、俺はその不安が強くなるのを感じていた。
だから、願ったんだ。一緒に居ることで、楽しめる人が欲しいと。
不安が消せないのであれば、忘れればいい。そう、願った。
過去が無い不安、未来を知らない不安、離れて行ってしまう様な漠然とした不安。
楽しければ楽しいほど、愉快であれば愉快なだけ、不安は強く強く強くなってゆく。
楽しい時間が過ぎれば、あとは空しい時間が残るように。
そんな時間を、少しでも埋める為に、俺は願った。
雨が、やむ。気が付けば雨が止んでいた。
空は高く、隅々まで霽れる。流石は夏の空。
いや、今は梅雨の残りかもしれないけど。
それは快晴。皮肉な事に、絶好の日和。
アイツは言った。俺は希望を求めると絶望すると。
『太陽に近づけば、ロウの翼は溶けてしまう』
言い得て最高。まさにその通り。希望を求めるだけ無駄で、希望を求めるだけ浅薄で、希望を求めるだけ絶望する。
こんなに空が青いのに、俺の気分は一向に霽れないでいる。気持ちのいい風が吹き抜ける。濡れた体には少し寒い。
体を、一層丸める。
「ここに、いたのか…」
声が、響いた。そちらのほうに目を向ける。体はそのまま、視線だけを移す。
そこには、濡れた、梓がいた。体全身濡れていて、未だに髪の毛からは雨が滴り落ちている。
薄着の服は体に引っ付いていて、その姿が妙に艶まかしいが、本人は至って気にしていない様子だ。
「……」
俺は答えない。梓はゆっくりと、弾んだ呼吸を斉えるためなのか、それとも労れてなのか、ゆっくりとこっちに歩いてくる。
そして、間の前に座った。視線の高さが、同じになる。
そして、
「…っっ」
俺を叩いた。顔がじんじんと、熱を持つ。
態勢が崩れ、無様に気の幹に転げるように倒れこむ。力など入らない。
「…昨日、家に電話がかかってきてね…薫からだ」
梓は誰に話すわけでもなく、目を閉じたまま話す。
俺はそれを聞く。いや、それを聞くことすら出来ないほど、意識が朦朧としている。
「お前が居ないと、美咲が泣いたらしいね」
ああ、そうか。俺は未だにアイツに愛されているのか。
「だから、今、皆して町中を探してた。雨の中だぞ」
俺は何も言わない。
無言、無言、無言。
「……ボクには、キミが何を考えているのか、正直なところ、もうわからない…」
その言葉に、はっとする。
「? …能力が、消えた、のか…」
ぼそっと、俺は呟く。それは本当にかすれていて、久し振りに聞いた自分の声は自分の声ではなかった。
「……? …気づいてたんだ…まあ…そうだね…そんなこと、今は関係ない」
しかし、梓は未だに姿勢を崩そうとすら、しない。
<<夢は所詮夢。剥げ落ちてそしていつもの終わりに帰着するだけ>>
いつかどこかの、誰かの言葉。それが不意に、思い出された。
「和の字、お前は、やっちゃいけないことをした」
そうか、もう、能力は無いのか。
「だから、私は怒ってる。でもね、今、アンタはやらなきゃいけないことがある」
俺らの繋がりは切れた。崩壊は、始まっている。
もう、俺はここには、いれない。
「……戻りな…家に」
「……」
無言、無言、無言。
そして、俺は言葉を績ぐ。それを言うと相手が怒ることも承知だ。
「…帰れないさ…俺は…」
「帰れ」
梓は俺をしっかりと見据えながら言う。
体が冷え切っているのか、微妙に震えている。
「…じゃないと、ボクはキミを怨む…」
本気の、梓だ、相手の気持ちを読みながら、相手の態度を偵いながら、そして相手のコトを考えながら喋る梓ではなく、本気の梓。
俺は、そんな梓に、何も言えなくなる。
「…和の字、アンタがどう思ってようと関係ないし、知らない。だけど、アンタは友達を悲しませたんだぞ」
ずきん。言葉が俺に響く。
友達、か―――。
不意に、涙が出てきた。理由は分からない。
だが、不意に涙が出てきた。涙は中々止まってくれなくて、僕は本当に泣きそうだった。
「…和の…字…」
憫れみの目。俺は泣いた。
嗚咽は漏らさなかったが、人の前で泣いたのは、初めてだともう。それくらい、涙が出てきた。
「……サンキュ…梓…」
お礼を言う。決して許してはもらえないだろう。
人の人生を捻じ曲げてまで、生きようとしたこの俺を。
許すことは出来無いだろうが、そんな人間を、友達と言ってくれたなら、どんだけ嬉しいことか。
崩壊は始まっていた。体はとうの昔に限界を邀えていた。
そこで俺は、立つ気力すらなく、そのまま眠るように目を閉じた。
清々しい。
空はこんなにも絶好の日和。桜の下で。
俺を『友達』と読んでくれる人間の前で。俺が、居るのだと思うと。
だから俺は、最後の最後で、一つだけの幸福を、見つけることが、できたのかもしれない。
<<貴方は決して一緒にはなれません。一人になるだけです>>
意識は、已に無かった。
ある日の、思い出。ある、温かい春の日だったと思う。
空には太陽が耀いていて、僕は体がうずうずして、病院を飛び出した。
<<……ねえ、あのさぁ…>>
そこで、病院の庭で、僕は一人の女の子を見つけた。
庭で、何をするもなく、ただ寂しそうに、ベンチに座っていた子を。
退屈だった、理由なんてそんなものだ。この病院も、そして先生達も。
僕はそんなに思い病気じゃないのに、無理やり病院へと入れられた。
もっと、僕は遊びたかったのに。
<<……>>
少女は怯えたような表情をした。そんな表情をされると、こまる。
正直、そんな反応去れるとは思っていなかった。
女の子は、友達が欲しいと、思っていた。
でも、目の前の女の子は僕を、じっとまるで怯えたように見ていた。
僕は、ちょっと悲しくなった。だから、友達になりたかった。
そうすれば、悲しい気持ちも消えると思ったし、何より僕が少女のことが気になった。
<<え、えっとさぁ…僕、最近着たばっかりなんだけど…>>
相変わらずの沈黙オーラ。何をしていいのかさっぱり。
それでも僕は必死に言葉を績ぎだす。言葉を探して、それを繋げてゆく。
オーラがふと、柔らかいものに変わった。
<<…あ、そうそう。僕の名前は、きゅうらぎ かずとって言うんだ。君は?>>
一気に、そう言い切ってしまう。
多分、本の冗談。単なる退屈しのぎ。狭いこんなに退屈な場所に入れられて、誰でも良かったから話したかっただけ。
でも、このとき、已に少女は僕の中では大きな存在だったのかもしれない。
少女は、困ったような表情のまま、僕から目を逸らした。
<<わたしは……>>
少女が下を向く。顔からは笑顔が消えていて、前よりもずっと暗い顔になった。
やばい。何かが直感的にわかった。
咄嗟に、
<<い、言いたくないなら、いいんだ、うん>>
あははと、僕はかわいた笑いをする。しかし、それをみた女の子は更に悲しい顔をする。
僕にどうしろと言うのだろう。すると、唐突に、
<<ともえ>>
少女が自分の名前を口にする。僕はそれが上手く聞こえなかった。
<<え…何??>>
<<…わたしの、名前…ともえ>>
ああと、一瞬遅れてわかる。少女は名前を言っていたのだと。
その瞬間、僕は嬉しくなる。
<<えっと…うん、よろしく…その、ともえちゃん>>
僕も、確認するように名前を口にする。
<<かずとくん…も、よろしく>>
少女は、とても可愛げに、頬を赤らめながらそう言った。
ぎこちない挨拶だったけど、僕らにはそれが精一杯だった。
ある春の日。丘の下の病院で、僕らは確かに出逢っていた。
楽しかった時間。そして、毎日繰り返されていく幸せな時間。
―――僕らは本当に、幸せだった。