08月03日
薄く、小さく目を開けると、光が目の中に入ってきた。
「………ぁ…」
病院で覚醒たのは、これで二度目だった。いや、過去、何回もここで寝起きをしているはずなのだが、未だに記憶には霞がかっている部分が多い。
だから、今の俺にとって、病院は二回目、と言う意味だが。
「……」
一瞬、これは夢なのかと自問する。というより、あそこで自分は死まで覚悟したのだが…。
それでも、自分は生きていた。場違いな命を借りて。
まだ、悲劇は続くのだろう…。そう思うと、このまま泥のように眠りたくなる。
「あ…兄っ!」
と、病院の入り口のほう、そこから弾んだ声がした。顔だけ向けると、そこには美咲が立っていた。
その背後には…
「…ぇ…?」
「…大丈夫か、和人?」
病院に、静寂が満ちる。背の高くて、しかもとびっきり格好いい男の人と、髪が長くてすらっとした女の人が、立っていた。
男と女はきりっとした背広に身を包み、真正面から俺を凝視ていた。意思の強そうな瞳、そしてしまった表情。
その顔は、俺が結構長い間見ていなかった、両親のものだった。
「……帰って、来たのか…」
両親に、久し振りの対面がこれでは、あまり様にならない。
しかし、懐かしいという感覚はあった。最も、借り物だが。
「兄っ! もーなんであんな無茶したの!?」
どかどかと寝室に入ってくる美咲。そして…
「…ぅっ……!」
俺の布団の上にのっかりながら、俺を圧殺すべく体重をかける。
「…ぐ…くるしぃ…わ、悪かった…美咲…悪かったって…」
『ふん』と美咲は小さく言って、俺の上から離れる。やはり、美咲は美咲なりに俺を心配してくれていたのだろう。そう思うと、こういう目にあうのもいいかな…と思う。
それと入れ違うように父さんと、母さんが俺の隣に寄り添う。
「…栄養失調で運び込まれて、その次は神経衰弱だとな」
「父さん…」
ふ〜と、呆れたような声を出す父さん。それはそうだろう。まさか、自分の子どもがそれも二回も病院に運ばれたとなれば、親の管理責任もあったもんじゃない。
そもそも、俺達の暮らしを了承してくれたのだって、俺らが自分らで出来るという判断の上なのだから。
俺らは、その判断を真向から裏切った形となるのだから。そう思うと、多少は胸が痛かった。
しかし。
「馬鹿が」
その一言で、切り捨てられた。ふと、嬉しくなる。
俺にも、こんなに心配してくれている人間が居るのかと思うと、少し温かくなってくる。ただし…。
「…イキナリ再会した病気の息子に馬鹿とは言ってくれるな…」
相変わらずの冷淡な態度に、俺は少しこいつが本当に親なのかと、疑いたくなってくる。
そもそも、息子が病院で倒れて寝込んでいるのだから、犒いの言葉一つでもあったらどうなんだ。
つか、態度は相変わらずか…馬鹿親父共。いつも通りの会話。
端から見たら単なる中の悪い家族かもしれない。でも、俺にとっては最高の家族だ。
…多少、思い遣りが欠けているのは認めるが。
「馬鹿はどっちもだ、馬鹿共。つか、和人、アンタ、大丈夫なのかい?」
更に切り捨てる母さんの声。
母、強し。つか、強すぎ。
母さん本人によると、過去、とある人物に激しくコキ使われた結果だとか。
『あの人に逢ったら…ふ、自分の人生観なんか微塵もなくなっちまうわよ』
と、語ってくれたことが逢ったのだが。
…そんなに強い人なのだと、思う。
ちなみにその人物は母さんの一個上の先輩にあたり、この町の近くに住んでいるらしい。
流石は、佐伯家…会ったことは無いが、と言うか会いたいとも思わないが。
「まあ、それなりに」
ふ〜と、今度は母さんの呆れた声。
「ったく、なら呼ぶんじゃないっての…金はちゃんと振り込んどいてやるし、問題ないじゃねーか、馬鹿息子共」
…本気で心底呆れた表情をする父さん。
「わ、私は娘だってば!」
アハハと笑って誤魔化す美咲。
「どっちでもいいさ。ま、アンタは少しばっか養生しときな。流石に、労れてんだろうし」
シュボっという音と共に、病院内に場違いな煙が立つ。
「…あの、母さん…院内禁煙なんだけど…」
「あぁっ!?」
凄まれた。つか、息子に凄むな。しかも、俺は病気だ。
「いいんだよ、私は」
いいのか。言い切りやがった、つか、ダメだ。
しかし、負けてしまうのがまた、久良木家の男の弱さなのだが(と言うより、母が強すぎるのだが)
「まあ、俺らも帰ってきちまったもんは仕方ねー。家には少しばっかいるつもりだからよ」
裏を返せば少し経ったら又消えるって意味だがな。まったく、この親どもは。少しは日本国憲法の『親権』について読んでおけと言いたくなる。
言ったところで無駄だろうが。
「んじゃな、死ぬときは火葬が高いからせめて自分で焼いてくれ」
挨拶も間もなく、2人はさっさと病院から退散する。つか、あの2人にとって俺は何なんだろうかと考えてしまうほどの、クールっぷりだ。
…まあ、今に始まったことじゃないが。沈黙が、降りる。
窓から差し込む午後の日和が、何よりも温かかった。
懐かしい、そう、正直の思う。ゆっくりと、慣れた足取りで廊下を歩く。
ここに少し前まで、いたのだから当然だ。病院内は最早慣れたもの。
間違うことはあっても、迷う事は無い。
ゆっくりとした足取りで、カウンターに向かい、和人の部屋の番号を聞く。
受付の女性は、私のことを見ただけですんなりと教えてくれた。
…少しは質問のようなものも逢っていいと思うのだが…。
この病院の管理体制も疑わしいところだった。
まあ、その件はお父さまかおじいさまに言っておくとして。そしてそのままエレベーターへ。
病院内は多くの人が居て、それぞれが思い思いにすごしている。
人が一番死ぬ場所であり、そして人が一番生きる場所。そんな、不思議な空間。
そして私の人生が、変わった場所。あの人とであった場所…そして、失くした場所だ。
複雑な思いになる。もし出逢っていなかったらどうなっていたか、そしてもしも失っていなかったらどうなっていたか。
また、そもそもこのまま病院以来逢わなかったらどうなっていたか。
どれもこれもが過ぎたことで、愚問だったのだ。
私は一瞬頭を軽くふり、雑念を消し去る。真っ直ぐと、白いロビーの廊下を歩く。
と、向こう側から知った顔の人達が歩いてきた。
「…あ」
最初に気づいたのは、その中で娘らしき子ども。
しかし、直に私を睨めつけるような目つきになる。
その視線も、慣れっこだ。知っている。この人物の名前は、久良木 美咲。
久良木 和人の妹にあたり、運動が得意。
最も、夢の中では、だけれども。
「…巴ちゃんかい?」
と、男の人が、私の名を呼ぶ。確かこの人物は、数回病院で見かけて居たはずだ。
おそらく、父方だろう。そうなると無効で傍若無人にもタバコをふかしているのが、母方だろう。
…何か、この世界とは異なるオーラを感じてしまう。
「……はい…」
私は言葉少なめに、そう答えた。
「…随分見ないうちに、大きくなったもんだ、家の和人とは大違いだな」
そのお母さんの言葉に、私は何も言えなくなる。おそらく、意識はしていないだろう。無意識に言い放った言葉。
でもその言葉は私の中の暗い部分を、揺り動かす。
「何で、来たんですか?」
威圧的な言葉。目の前には、仇を目の当たりにしたかのような形相で私を睨む、美咲。
「…来ちゃ、いけなかった?」
私はそれに何ら感情を込まないまま、返す。
「ええ、はっきりいって邪魔です」
はっきりと、両親の前であるにもかかわらず美咲はそういいきった。
「…失礼します…」
3人の横を抜ける。そのまま、まっすぐ和人の病室へ。
「ま、まちなさっ!」
そこで、美咲は誰かに遮られる。恐らく、ご両親のどちらかだろう。
私はそれに構いもせずに、歩き続けた。私は背後、誰とも無く感謝の言葉を、心のうちだけでそっと述べた。
コンコンと、控えめなノックの音。
「…はい?」
誰だろう。正直、分かりかねる。
今さっき両親は帰った。時間帯は已に遅く、時間帯は夕暮れの時間帯に早くもかかりつつある。
そんな時間帯に、一体誰だろうか。
「…和人…」
声が、響いた。
―――どくん
心臓がはねた。
「とも…え…」
呼吸が苦しい。一気に心音が加速。胸を圧迫する。
最早、心臓は已に早鐘のような速さでなり続けており、正直響いてうるさいほどだ。
目の前に悠然とたった少女は、森崎 巴そのものだった。
「和人、大丈夫?」
相変わらずの無表情さ。相変わらずの態度。
そして、相変わらずの偏愛っぷり。
巴は俺の言葉を聞く前に、ゆっくりとこちらにくる。
段々、巴の気配が濃くなる。威圧的な雰囲気…絶対的な雰囲気…巴の、気配。
あたりの空間は徐々に侵食されてゆき、俺は完全に世界の飲まれる。
巴の視線から、逃れることが出来無い。
「あ、ああ…大丈夫…だと思う…」
自分でも何を喋っているのか分からない。ただ、自然に言葉が出てくる。
目の前の巴は『そう…』と軽く頷いただけで、特に変化は無い。
巴の中では、已に自己完結しているらしい。
「……あのさ…巴…」
「ごめんなさい、和人…」
ふと、気配が変わった。今まで重々しい雰囲気だったのが、一瞬にして普通の空気に戻る。
いや、言い換えれば。巴が変わったのだが。
「ごめんなさい…和人…」
訳が、分からない。いや、訳なら分かった。
「お、おいおい…コレはお前のせいじゃあ…」
「ごめんなさい……和人……」
ひたすら、それのみを繰り返す巴。俺はその態度に、久し振りに怒りを覚える。
―――泣かれると、困る。
「だから、巴のせいじゃないって言ってるだろ。これは俺が勝手に無茶しただけで…」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
巴は、泣いていた。その姿に、俺はもう我慢できなくなる。
「巴っっ!!!」
大きな声を出す。病室の中で、声は思いっきり外まで響いただろう。その声に、巴も我に帰る。
「……」
「……」
しばし、見つめあう。巴が少し落ち着きを取り戻したところを見計らって俺は始めた。
「…もう、俺に構うな」
冷たく接する、ことを。俺は、他人を幸せにする事はできない。
自分ではそのつもりでも、絶対人を不幸にする。
だから、俺は俺のコトを『好き』だと言ってくれた子を、不幸にするだろう。
「俺は……お前を幸せに出来無いし、お前にそもそもそんな感情は持ち合わせていないんだ」
言葉が勝手に出てくる。俺は止まらない、いや止まれない。
この目の前の巴と言う少女を傷つけるために、俺は言葉を発する。
この言葉で一番傷つくのは巴だ。わかってる、だが、俺は傷つける。
それで、俺を嫌ってくれるのなら、傷つける。俺と関係しないでくれるのなら、喜んで傷つける。
最初は人が傷つくのが嫌だった。だから、反発した。
しかし、それは偽善だ。求めれば、一番傷つくのはその人で、俺ではなかった。
俺は、守る振りをして、人を傷つけていただけだった。
ありもしない幻想を人に押し付けて、人の人生を狂わせ、それでもって人を傷つけたくないとは何と言う欺瞞。偽善。
自らが最も人に憎まれるべき対象であるのに、人に好かれようなどとは言語道断。
俺は、最も人に憎まれるべき対象なら、望んでその役をこなすだけ。
そう、俺は人を幸せにする事は出来無い。
「お前が勝手に俺に言い寄ってきているだけだろ、迷惑なんだよ、お前も、薫も、梓も、美咲も。全員、全員だ」
巴は喋らない。何も、喋らない。俺は人を、不幸にすることしか出来無いから。
「俺には、愛情も、友情も、劣情も、感情も、同情も、全部、全部が不要、なんだ」
俺は、人と一緒になることは出来無いから。
「…わかったら、出てけ…」
巴は何も言わない。何も、言わない。ただ、無言で、俺の前から、姿を消すべく、背後を向けた。
「…か、ずと…」
病室の扉の前、後ろ向きのまま、俺に問う。
「…昔のコト、思い出した…の?」
―――どくん
「昔? お前、何か知ってるのか?」
心臓が、五月蝿い。今は黙ってろ。
「…忘れているなら、いいの…」
<<昔、僕は女の子と知り合った>>
「……なら、早く行け…」
ぶっきらぼうに、言い放つ。
「…うん…さようなら」
扉が開き、そしてゆっくりと閉まる。室内は、本当の意味で、今、沈黙した。
崩壊は、已に始まっていて。知らないうちに壊れていた。
でも、最初から積み上げたものなんか無いから、崩壊というのは不解しいけど。
それでも。それでも、それでも。
「…ぁ…」
涙は、出てくるものだ。弱い自分の証明。
まだ、この偽善を続けたいという心の叫び。俺はその夜、嗚咽を漏らそうともせず、泣いた。
もう、戻れない。
それだけが、確かな実感としてあった。