- F u l l B l o o m -
「ただいま〜」
季節はすでに秋も晩、冬に入っている。12月にもなると流石に夜は寒い。
何十にも着こんで言っても、流石に寒さは完全には防げない。
だから俺は、最近死にそうになりながら、帰宅するのだ。
「お、兄ぃ、おかえり。また、アソコ?」
「おお。うおー寒い! つか、マジで寒いぞ…今日の最高気温って何度だよ…」
時刻は已に8時をまわっており、すでに妹の美咲は宿題を終わらせるためにリビングで勉強していた。
机の上には毎度の事、ラップをかけられている夕飯が置かれている…かと思いきや、今日はラップがついてなかった。
「美咲、サンキュ」
俺はただそれだけを言うと、机の上に用意されてある美咲特性のカレーライスを食べる。
美咲は最近、連続で俺が料理当番をサボるのを、何も言わなくなった。まったく、前は本当に五月蝿かったものだ―――。
「ま、毎日この時間までアソコにいるからね〜。流石に、2ヶ月も続けるとは思ってなかったけどさ、時間はわかるようになったからね」
俺の方を向かずに答える美咲。俺はカレー片手に美咲に近づいていき、背後から美咲の宿題を見る。
美咲が解いているのは高校受験のための試験問題だった。
「美咲、受験に精がでるなー。お前、まだ先だろう?」
俺はとりあえず、最近毎回言っていることを繰り返し言う。
「まね〜♪ ほら、あたしってば天才じゃん? だから、もう普通レベルの問題は解き尽くしちゃっててね〜」
三度、問題に熱中しながら言う美咲。まったく、見事なもんだ。
もともと美咲は、昔は体育に、そして今は勉学にと対象こそ違えど、才能は有ったのだ。
すなわち、頑張ることが出来る才能が。一時期は随分と落ち込んでいた美咲だったが、最近はやりたい事を見つけたと言って、毎日勉強に励んでいる。
しかもそれが自分が好きなことだというのだから、俺は何も言えない。いや、本当はそれが一番だと自覚する。
俺みたいに現実逃避のために勉強に逃げているわけじゃなくて、あくまで自分のやりたいこととして勉強をとららえることが出来る美咲が、とても羨ましかった。
しかし、それでも美咲の才能には驚かされる。無論努力の成果なのだろうが、美咲の成績は最近うなぎのぼりだ。
それに、天才少女としての王冠を未だキープし続けている神楽坂 光の座を、危うくしているということだった。
そういうわけで、最近明らかに悠の為業だろうが、イタズラ電話が相次いでいる。
曰く、『これ以上勉強するとお前を殺す』やら『お前は勉強してはいけない星の下に生れたのです』やら、酷いときには『光に首位をキープさせてあげてください』と泣き落としされたことすらある。
最近かかってこなくなったので、どうも電話ボックスで欠けていたことがバレタのだろう。今頃、悠の奴は光ちゃんのご機嫌取りの最中、というわけだ。
…地上最後の天才の名が、聞いて呆れるくらいの兄馬鹿っぷりだった。まあ、それくらい美咲が頑張っているのだ。
「ん…むぅ…ねえ、兄……初速度40kmで鉛直真上にボールをあげて、何秒後に落ちてくるのかって問題なんだけど…」
ずっと唸っていた美咲が、ふと俺に聞く。何となく、意気込む。ここは兄の威厳を―――。
「ん? で、それで?」
それくらいの物理の問題なら、俺にも解けるような気がしたのだが、
「ん…でね、時速不明の車の上からソレを行ったときの落下地点を表出す関数って、どうなるかな?」
………撃沈だった。兄としての威厳は無いに等しい、我が久良木家なのだった。
てか、やっぱり女が強い久良木家なのだと、実感する。
「さあな、薫にでも聞けばいいだろ…」
俺はカレーの皿を片付ける振りをして、台所へと逃げた。
■ ■ ■
「そいじゃ、またな」
「ああ、またな。判定模試、頑張ろうな」
俺はそう言うと、一緒に勉強していた数人の席の集団から、立ち上がる。集団の中で新にもう一度「じゃな」と言うと、そのまま、教室の廊下へと出る。
季節はすでに新年が開け、1月。付近の木々は已に葉の衣を脱ぎ捨て、そして寒々しい空の下、樹木の幹をさらしている寂しい季節だ。
唯一の救いがあるとすれば、今年は比較的雨やらの気象が少ないので、俺は比較的アソコでのんびりと出来るのだが。
むう、流石に模試前にもなると、結構そうしていることが辛い。勉強しようにも、それには流石に寒すぎて、精々参考書を片手に付近を見渡すくらいしかできないのだ。
「あ、和人…」
と、廊下にいた一人の生徒―翼と、俺はばったりと会った。
「お、翼。どうしたんだ?」
「別に、図書館寄ってたからね…今から帰り?」
「ああ、そうだけど。勉強か?」
歩き出しながら、会話する俺ら二人。極めて、自然に。
と、翼が手を差し出してきた。それを、俺はいつもの通りに軽くハイタッチ。
お互いニヤリと笑いあう。それだけで全てが通じる。
それが、俺らの今の距離。今までのようにつかず離れずではない。これ以上とないというほどくっついている。
「うん…もう少しで、初めての判定模試だからね…面接にも響くし、頑張ろうかなって」
「…むー、俺から言わせて貰えば、お前の成績なら別に心配することでもないと思うけどな」
廊下を、二人で歩く。その光景を見た数人が、翼に向けて軽く挨拶をする。
そんな光景が、いく度も続く。う〜ん、流石にこうにまでなると、遠い人になってしまったようだ…。
「お前も新たちと一緒に勉強するか? 結構タメになるぞ?」
「……ん、そうだね、まあ、気が向いたら行くよ。まだ、なかなか、難しくて、さ」
あははと言って、笑う翼。昔から考えれば、考えられなかった翼の表情だ。
…昔、か。その言葉が、随分と懐かしく聞こえる。
そう云えば、前、翼にこれを言われてキレていたことがあったことを思い出す。
まったく、俺は何様だったのだろうかと、今更ながら悔いる。しかし、それを翼に言ったとき、こいつは一言、
『今の一言で許すよ』
そう、言ってくれた。あのときだけは、本当に、人生で有数回だろう、マジ泣きしたのだった。
「んな野郎が、よくもまー生徒会に立候補とはね…」
また、翼を見て挨拶する生徒。俺の方にも何人か取り巻きとして挨拶してくれる。
「…半ば、強制的なんだけどね」
あははと、笑いながら会釈を返す翼。その姿がとても様になっていて、驚く。
翼にも、新しい友達が出来たらしい。その友人らと、翼は生徒会長に立候補しているのだ。
良く分からないが、今年の我が校の生徒会は、学年関係なく集まっている集団なため、誰が立候補しようとしてもいいらしい。
だから、翼が祭り上げられているわけなのだが…。下駄箱を経て、校庭へ出る。
「嫌なら言えよって、お前にそれは不要か」
「…ん、ありがと、和人」
ゆっくりと、校庭を歩く。今日も快晴。空には、雲ひとつ無い空が広がっていた。
「………和人、本当に変わったよね、昔から」
唐突に、翼がそう口にする。
「…色々、あったからな」
俺も、それに答える。それを聞いて聞かでか、翼はまた笑って、
「うん、そうだね。僕らきっと、親友って言っても問題ないよね?」
そんなことを、言う。
親友…か。あの翼に、そんな言葉が当てはまる日が来るとは、思っても見なかった。
最初は、ただ付き合いやすかったから。お互いに干渉されずにいれるのが、心地よかったから。
そのまま、二人は友達でも、他人でもないまま長い年月を過ごした。それが、俺らの”キョリ”だったのだ。
でも、それが今はこうやって笑いあっていられる。
これは、とても幸せなことじゃないのかと、思う。
ただ、
「…クサイな、それ…」
「うん、言って、おもった」
そう言うと二人は、声を立てて笑う。やがて、校門につく。いつもは一緒の方向へと歩いていた道だ。
「今日も、行くんでしょ?」
「勿論だ」
翼はそれを聞くと少し笑って、
「頑張ってね」
そう、力強く言った。そのまま、俺らは校門で逆方向へと歩き出す。
道は逆だが、そんな事は気にならないほど、俺らは立派に”親友”だった。
もう、違う道を歩いても、怖くない。あの時とは、違うのだから―――。
□ □ □
「うわ、寒っ!!」
外に出ると、凍えるような寒さ。ソレが比喩ではなく、真面目に何かに突き刺されているかのように、続く痛さ。
俺はそんな寒さに体を縮めながら、学校の校門をくぐる。吹く風が、体に文字通り刺さるほど、寒かった。吐く呼吸は白く、体は冷たく凍えている。
首に巻いているマフラーなど無関係に、冬の寒さが全身を襲い、服の中に入り込んでくるような錯覚を覚える。
季節はすでに2月も中旬で、完全に冬真っ最中だ。ちなみに、新の莫迦はインフルエンザにかかって、数日休んでいたりする。
だが、実際に新が休んでいた原因は、他にあることを、俺は良く知っているのだが。
それは、
「? あ、和人さん!」
そう朝から元気に声をかけてくれたのは、
「よ、千佳ちゃん、お疲れ様」
そう、今泉 千佳ちゃんだった。そして、その横に立っているのは、
「ん? ああ、和の字か…どうした? 進学組はもうすぐ模試だろう?」
梓だった。
二人とも体操服を、寒いこの気温の中、着たまま外に出て水を飲んでいる最中だったようだ。
首にタオルを巻いており、顔には微妙に汗もみえることから、練習中の休憩時間か、終了といったところだろう。
いや、多分休憩時間だが。微妙に上気した顔や、吐く息が白いのに顔がほんのり赤いあたりが、不覚にも微妙に色っぽいと思ってしまった。
それくらい、最近二人はみるみるうちに”女”へと成って行きつつある。
即効、その思考を脳内消去する。昔の梓だったら、何て言われただろうかと、苦笑する。
「あ、ん、まあな。でも、こう模試の連続だと、逆に模試の必要性が疑えてなー」
「確かに、ですよね。テストってマタにやるからいいのであって、こー一ヶ月に何回もあると、逆に大切身が半減するって言うか…」
千佳ちゃんがむーっと、唸り考えるようなポーズをとる。そんな為草ひとつひとつが、とても子どもっぽくて可愛いと思う。
ちなみにだが、最近千佳ちゃんが俺を呼ぶ呼び方は『和人さん』だが、一時期は無理をして『和人』と読んでいたこともあったのだが、周囲の爆笑と共に止めてしまったらしい。
昔は『かーくん』とか、『和人ちゃん』などと呼ばれていたのだが、結局『和人さん』に落ち着いたようだった。
「ま、進学組みも大変だよな。私達は単純に体動かしてりゃ文句言われないから、楽だよ」
ニヤリと笑う梓。そんな様子も、梓らしいと思う。梓は、昔よりも遙かに頼りがいがある女性へと変わっていた。
心が読めなくなったことで、逆に対人恐怖症になるかと思っていたのだが、それが真逆。
読めないなら、コッチからはっきりと伝えればいいじゃないか。嫌な奴は離れていくしなと、いつか笑って話していたことがある。
そして、その通りになった。梓は正式に、まだ3年生でもないのに副部長から部長へと昇格し、部活内のいぢめもなくなったらしい。
一時期は梓へのいぢめが集中したこともあったらしいが、そんなときに絶えず支えていたのが千佳ちゃんと言うわけだ。
元祖癒し系の彼女に、おそらく梓は無意識に助けられているんだと思う。
まったく、いいコンビだと思う。それは、多分、親友と呼んでも支障ないくらいの関係だろう。
「あ、そだ! 和人さん、そう云えば、章吾さんって、最近見ませんけど、どうなさったんですか?」
ちなみに、インフルエンザにかかっている人間のフルネームを、新 章吾と言う。つまり、奴だ。
「……さあ…ね…何か、インフルエンザにかかって、倒れてるってさ」
言葉につまる。横で梓が『章吾』という言葉が出てきたためにギロリと俺の事を睨んでいた。明らかに不機嫌。
そう、何を隠そう、新が千佳ちゃんに、例の殴りこみ事件以来惚れ、ストーカーとも取れる行為を毎日と言うほど千佳ちゃんにしていたのだ。
まあ、本人曰く、『不恰好だが、恋愛表現』だそうなのだが、世間曰く『明らかに不審者』であった。
最近では毎日毎日(梓に体育館に入ることを禁止されたので)外から見ていたらしい。
そのため、毎日の睡眠不足とプラスされて、ついにくたばったというわけだ。まさに、馬鹿。
だが、学力はトップクラス。まったく、悠といい新といい、俺の周りには頭はいい莫迦が多いと思うのだが。
「…ま、今回は、ボクにも原因があるわけだからね…流石に、体育館の外から見てるとは思わなかったしさ…しかも、屋根からぶら下がって…」
「?」
梓の言葉に、意味が分からなかったという様子で見る千佳ちゃん。
「まあ、これで新もこりたろ。これでこなくなると、千佳ちゃんもいいんだけどな…」
はぁと、溜息をつく二人。まったく、やりすぎだ。それくらい、アイツの行為は逸脱していた。
だが、アイツがなまじ頭が良く、しかもなにやら巨大なバックグラウンドを持っているので、あいつが問題を起こしても、問題にならないのだ。
だからさらに、達が悪い。俺らは二人で呆れる。
しかし、その中で一人、
「心配です…最近着てくださらなかったから、不安でした…」
そんなことを言う千佳ちゃん。まったく、よく言えるものだ…ここまでくると、天才だと思う。
「あのね〜…ちぃ…アイツは、アンタの事、ストーキングしてたんだよ? それを…」
「そーそー。これで毎日精一杯練習できるってもんじゃん?」
「でも…」
今一会話に乗り気でない千佳ちゃん。
そのまま、言葉につまって、どこか遠い目をする。
なにやら胸をぎゅっと押さえつけ、どことなく切なそうに空を仰ぐ。
「私、章吾さんのこと、心配です…章吾さんのことを考えちゃうと、何か、変なんです…気になるんです」
『!!!??』
「章吾さん…早く、元気になって、くださいね…」
「ち、千佳ちゃん?!」
自分でも声が上ずっていることに気づくほど、動揺しているヤツ一人。
「ちぃ、ちぃっ! 戻っておいで、ねえ、ちぃ〜〜〜!!!」
絶叫しながら体を揺らす情緒不安定なヤツ一人。
千佳ちゃんはそのまま恋する乙女よろしく、遠い目をしながらどこかで苦しんでいるであろう馬鹿に想いを馳せるのだった。
俺らはそんな千佳ちゃんを呆然としながら、何も言えずに黙ってみたいたのだった。
「私、多分、章吾さんのことが―――」
● ● ●
季節は冬から春へと、ゆっくりと、しかし着実に、そして段々と変わりつつある。
あたりの植物は長かった冬の眠りから目覚め、ゆっくりと新しい生命の伊吹をあたりに撒き散らしながらゆっくりと成長している。
まだ遠くの山をみると、未だに冬の名残の雪が見えるが、付近の空気は優しい、春の風だった。
朝はまだ寒いものの、比類はもう随分と明るい。それこそ、小春日和と呼ぶに相応しい日だ。
俺は昨日から春休みに入った。春休み…『休み』と名づけられているだけで、実質小休止にすらならない矛盾に満ちた時間だ。
春休みというのは表向きこそ休日だが、だが本領は一年間の勉強のそう復習をするための休みであり、そのために学生は結局休み返上で宿題やらに追われているのが現状だ。
それに、来年からはもっとはっきりと進学組と就職組みに分かれ、さらに文系と理系にも分かれるため、この春休みでしっかりと自分の意見を纏めておかなくては成らないのだ。
そんな中、俺は文庫本片手に、いつもの場所で、空を見上げながら、ゆっくりとした時間の中で、まるで御伽噺のようなゆったりとした空気を感じながら、いた。
「んん〜〜っ! いい、天気だよね、最近さ」
隣に腰掛けていた薫が、言葉をゆったりと発する。
「ああ、そうだな。ここ毎日、結構天気がいいんだ」
俺はその言葉に答えたのか、それとも独白か分からないような雰囲気で、答える。
二人の間に、ゆったりとした空気が満ちる。それが、とても心地いい。
「和人は、毎日ここにいんの?」
薫が、再び言葉を発する。
「そうだな…来なかった日は、ないな」
別にお互いが見合うわけでもなく、ゆっくりと流れて行く空の雲を眺めながら、どこへともなく喋る二人。
昔の薫からは、想像できなかったことだ。薫は、理想だった。そう、俺の理想。誰もの、理想だったのだ。
理想は理想たりえるために、誰にも犯されず、絶対的なものとして絶えずあった。
絶えず、守ってくれ存在である、そして絶えず微笑んでくれる存在だった。
まさに、偶像崇拝にも近い感情を、俺は昔薫に持っていた。
でも、いま、こうやって二人でゆっくりと、”対等に”話せているのが、嬉しかった。
やっと、薫とちゃんと向かい合って出合えた気がするからだ。
「……妬いちゃうな〜、そんなの、羨ましすぎ…ったく、巴のヤツ、本当にいつまで気づかないフリ続けてるのかな〜」
少し不機嫌そうな口調でいう薫。その様子も、今の俺なら受け止めれる。
昔の俺なら、おそらく信じていたものが失望か、崩壊したような印象を受けただろうか、今は薫は薫だった。
「和人は………まだ、待つの?」
「ああ、待つよ。いつまで待つのか分からないけどさ」
俺は薫を見ながら、そう言った。
「………」
「………」
少しの間の、沈黙。俺は別にその沈黙を何で埋めることも無く、沈黙を愉しんでいた。
そして、やがて薫はゆっくりと、立ち上がり、スカートについた草を払い落とす。
今まで薫がよっかかっていた気から、大きく背伸びをする薫。
「……でも、今ので、吹っ切れたっス」
空を見ながら言う薫。どこまでも済んだ空、そしてそこには天使が一人―――っと、その比喩は、胸の置くだけにしまっておく。
こんなこと言おうもんなら、思いっきりからかわれることは眼に見えている。
「吹っ切れる…か…薫、俺は思うんだけどさ、薫は分かってたんじゃないの? 俺と…アイツが最初に会ったときから、こうなるって」
もしかしたら、ここで薫と一緒に愛を囁いている未来もあったかもしれない。
もしかしたら、もしかしたら、ここで梓と一緒に笑っていた選択肢があったかもしれない。
ここで、千佳ちゃんや、外の人と、翼と、美咲と、色んな人と一緒にいたかもしれない無数の可能性がある。
でも、それはまた違う話。ここでは語られることの無い、選ばれなかった選択肢のひとつ。
おそらく、薫は、最初からどれでもない、この可能性を知っていたのではないかと、そう思うのだ。
「それに、お前が巴を励ましてくれたこととかも、あったんじゃないのか?」
何も言わない薫。
数秒後、薫は俺をしっかりと見て、笑顔で
「……はい」
と力強く、言ったのだった。
「…そう、だね…だから、吹っ切れたってのは、嘘に成るケドさ……でも、私、和人にベタ惚れだったんすよ? いや、これはマジで」
そう言って微笑む薫。その笑顔に、思わず見とれてしまう。
嗚呼、これが、多分、薫なんだろうなと、実感できた。
「…でも、俺は…」
「いいんです、私、嬉しいです。私は和人の全てを知っています、好み、癖、全部知ってます。でも…」
一瞬、薫は悲しそうな顔を……―――いや、嬉しそうな顔をして、
「和人も、私のこと、ちゃんと知っていてくれたんですね…」
そういって、笑った。微笑んだというより、笑った。
心から、始めて、薫が笑ったところを見た。初めて、微笑み続けていた少女が、”笑”った。
微笑みより多少は不自然だったけど、それでも、随分と自然に見えた。
「…ああ、見てた。久良木 和人も、乙葉 薫に、ベタ惚れだったからな」
「あーあ。なら、フらないで下さいよ……。傷つくな〜ハジメテだったのにぃ〜」
ふと、そこで薫は不意に言葉を切る。
次の瞬間、唇が重なっていた。
「―――っ!!」
「…ん……ふふ、ついでに私のファースト・キスです…あげます」
「―――っんな…か、薫!?」
行き成りの奇襲に、動揺する俺。しかし、それを気にした様子も無く、
「これくらい、くれてもいいじゃないですか? それとも、その唇も全部、巴だけのものですか?」
そう云うと、口を尖がらるジェスチャーを見せる薫。唖然とする、俺。
しかし、それから直ぐに、俺はそんな薫が何故かおかしくて、笑ってしまった。
あはははと、二人で笑いあう。心から楽しいといった、それだけの表情で。
腹の底から、二人とも笑った。気持ちのいい、瞬間だ。
「私は、何ももらえないと思ってました…最初から、全部ありましたから…でも、」
風が、丘の上を駆け抜けてゆく。薫は軽く手に帽子を握り、空を見る。
空は、相変わらずゆっくりと雲が流れて行くだけの、閑な光景が広がってる。
それを、二人で眺める。
「ちゃんと、貰ってたんですね…私。それに、気づかなかっただけで…」
そう言った薫は、今迄で見た中で一番、綺麗だと思った。今までの、どんな薫より、ずっと。
だから俺は、そんな薫を、静かに見ていた。
○ ○ ○
終わりは唐突だった。いや、始まりも唐突で、俺はその変化についていけていなかっただけだった。
毎回見ていた、人間の行い。今回も、半分は絶望を、そしてもう半分は失望をベットして行った賭けで、大勝を飾るはずだった。
だが、そうは成らなかった。そうは、成らなくて良かったと、言うべきなのだろうか。
静かな夜。丘の上には二本の桜の木と、三人の影。
誰にも見られることも無く、そして誰にも感じられることも無く、何もせずに立っているだけの、そんな三人。
誰とも無く、口を開く。おそらく、順序は決まっていなかったのだろう。一人の影が、ゆっくりと動いた。
「…信じる、か…労れるよね、それって」
その言葉に、唯一の女性である影が、声を重ねる。
「それにね……大概は、裏切られる」
その言葉を静かに聴いていた一つの影。
いや、それは闇世の中、確実な姿として存在していたたったひとつの存在だった。
男は語る。ゆっくりと。
「ボクの賭けは……ボクの負けだね。結局、僕らは何も出来なかったから」
「ふん、つまらないよ、つまらないね…」
まるで子どものように怒りを現にする影。
「所詮は人間の子。自分ひとりじゃ何も出来無い存在なのに、結局は人に頼っているのに…」
「それが、人間なんじゃないかな?」
二人の影と、一人の男は沈黙する。付近には何も無い。でも、何かがいた。
「ボクは…結局、信じることも出来なかった…なのに、彼は自分で辿りついた…」
男は、ふっと、呼吸をする。影はゆっくりと、でもしっかりと頷いた。
「僕は人間が嫌いだ。奴等は汚いし、裏切る。それに、自分の事しか考えていない。そのくせ、色々なものに振り回される」
「それに、望みは浅墓。自らのことしか考えていない、利己的な望みしか持っていない。それで、他人を振り回す」
「……確かに、人間にはそんなところが多い。でも、その中でも、一つだけ、信頼できる感情があると思うんだ」
「……それが、もし自らが傷つくことを恐れるあまり、壁を作ったような人間にも?」
「……それが、もし人との関係をまるでジグソーパズルみたいに、簡単に扱える人間にも?」
「恐怖の余り、自らの殻に閉じこもった人間にも?」
「自らが絶えず優先的な位置にいないと満足出来ないような人間にも?」
「うん、ボクはやっぱり、人間を信じたいな……だって彼らは、疑うことを知ってるけど、でもそれでえも、お互いに信じあえるんだからね」
「………」
「………」
「……今回はキミの勝ちだよ。でも、次は負けない…僕は、人間を信じない」
「わたしも、わからない。今回は、こうだった。でも、まだ、わからない」
「……それでいいと思うよ、ボクは、人間が好きだから。彼らを信じてみたいんだ」
―――だから、いくよ、ボクは。人間を、信じていたいから―――
丘の上には満開の桜。
暗闇の中浮ぶように、思いっきり豪華に咲き乱れている木々。
桜の花びらが世闇に舞い散り、あふれんばかりの生気を噴出し続けている。
見るものを魅了し、見たものを離さない、そんな桜の木。
そんな気が3本、丘の上で、それこそ力強く、咲いていた。